事故の顛末

1977年12月

それは、大学の5年生の冬12月のことだった。当時、「古典ギター同好会」に籍を置きながら「リコーダーアンサンブル」という仲間とも付き合っていて、明日は新宿のジローの店の2階でクリスマス・コンサートがあるという日だった。18時から軽く最終音合わせをすることになっていたので、その前に家庭教師から戻らなくてはならなかった。

その日もやはり、朝から暗室にこもって金属顕微鏡で撮影したフィルムの現像をしていたが、午後3時ちょうど撮影した分は全部終えた。みどり荘にもどり、さっそくCB450K1のエンジンをかけようとしたが、どういうわけかさっぱりかからない。キックのやりすぎで点火プラグを濡らしてしまった。予備と交換してようやくスタートした。

家庭教師先までは20分ほどである。ちょうど、中間点あたりの林の中から乗用車が出てきた。僕の左側からだ。なんと運転手はこっちを見てない。反対側の左側ばかり見て右折してくる。右にさけようとしたが間に合わず、ガシーンという音がした。その時運転手の驚いた顔が見えた。僕はそのままよろよろと走り、右側の路肩に転げ落ちた。ライダーを失ったCB450はしばらくはそのまま走っていたが、10m程先で倒れた。その一部始終をスローモーションのように見ていたが、左足の痛みに気が付いた。立とうとしたが、足が粘土細工のようにふにゃっとして立てない。折れている事がわかった。

さっきの運転手が駆け寄ってきた。強烈なアドレナリンの作用で震えはあるがそれ程痛みは感じない。まるで自分のことではないように冷静に眺めている自分があった。週に2回は通っている道なので、すぐ近くに救急病院がある事を知っていた。そこに連れていって欲しいと頼んだ。肩を貸してもらい後部座席に乗ったが、ほとんど倒れ込んだ状態だった。そのときから横になったままの生活が始まった。


あっという間に病院に着いた、あわただしく看護婦さん達が飛び出して来てそのまま手術室に運び込まれた。このころには痛みが激しくなり苦しかったが、冷静に質問に答えた。脊髄に麻酔を注射された。意識ははっきりしていて言葉は通常に話せた。左足が数箇所折れていたし、傷口が大きかったようだ。これからは片足になるんだなと覚悟したが、だいじょうぶ歩けるようになるということだった。子供のころに一度左足を怪我してギブスをはめた片足の生活をしたことがあり、その後遺症さえあるのだったから、ほっとした。先生は、よくある若者の無茶な運転による事故だと思ってたようだったが、無茶なのは相手方だという僕の訴えを聞きながら手際良く応急手当てを終えた。今思えば、患者の反応を見ながらのプロのみごとな技だったのだ。


病室に運ばれた。後で知ったが、8人入る大部屋だった。まずは緊急の連絡を頼んだ。両親にはまったく申し訳ないことをしたなと思った。みどり荘の仲間が駆けつけてくれて家庭教師先とリコーダー・アンサンブルの練習には行けないことを連絡してもらった。夜になり麻酔が切れてくるにつれ痛みがひどくなった。みどり荘の田中和男は朝までベッドの横に居てくれてタオルで頭を冷やしてくれた。


朝、両親がが駆けつけて来た。こんなみっともない格好を見せるのは恥ずかしかった。ちょっとした傷をつくったり、風邪を引いただけでも父にはよく怒鳴られた。父と母にもらった体なのだ。大事にしなくてはならない。そういう教育を受けていた。特に母には心配を掛けてしまった。病院からの事務的な連絡では状況がわからず、自分の目で確かめるまで気が休まらず、一睡もしないで夜行列車で過ごしたのだ。

そうして、寝たまま年を越し、1979年となった。ようやく熱も下がり、手術をした。かなり長い手術だった。今回は軽い局部麻酔だけだったので、痛かった。終わったときにはほとんど痛みの為に気絶寸前だった。皮膚を移植する為、強い麻酔は掛けない方が良いということだった。最後にギプスで固定された。


それからが長かった。毎日毎日、友人達が見舞いに来てくれた。卒業間近で忙しい時期に、交通の不便なところまでわざわざ来てくれた。家庭教師はベッドの上で続けた。この場合は家庭ではなく何教師というのだろう。

いよいよ後期試験が間近になって、ギプスが外れ、半ギプスになった。裏側のギプスだけ残し、開いて傷口を見たのだ。皮膚の癒着ぐあいは良好だとのこと。また包帯を巻いて、半ギプスで固定した。最後の物性物理学Uの試験を受けなくては卒業できない。院長に無理を言って退院させてもらった。その後は通院することにした。後になって悔やむことしかできない訳だが、この時きちんと治療していれば後遺症もひどくはなかったのではと時々思う。


試験会場は4階だった。大場一成におんぶしてもらった。病院で毎日勉強したおかげで、答案は完璧に書けた。こんなの初めてだ。少しはいいこともあるものだ。


そうして、何とか卒業はしたものの、ほとんど歩ける状態ではなく、痛みがひどかった。まわりの友人達はみな社会に飛び出して行った。僕は隣町江戸川台の月5000円のアパートに引越しした。それから半年は世間から隔離された生活になった。よく、バイク・ツーリングの事を思い出した。歩けるようになったら、何でもやってやる、今は充電してるんだ、と自分に言い聞かせていた。

人間は一人では生きていけないことを体験したのでした。今のように気軽に電話、それも携帯電話で人と話しができる訳ではなかったのです。何日も人と話しをしない日が続きました。なんとか世間とのつながりを維持したのは、ときどき来る友人からの手紙でした。そうしたことがなかったら、さびしくて耐えられなかったと思います。いくら読書ばかりしていても、自分に対する反応はないからです。この江戸川台時代は僕にとって本当につらい時代でした。これが、後の僕の原点になったのです

1998年1月17日記