信州第一回目の巻

1984年8月

はじめに

仙台に転勤になって数年。30歳になった.。記念というわけでは無いがイーハトーブを下取りにして250ccのオフロード車を買った。5月の連休に一泊二日の野宿ツーリングをしたり林道を走ってみたりしてオフロード感覚を養い、いよいよ夏、一週間の信州ツーリングに出た。最初に会津の大竹の実家に泊まる他はまったくの無計画で地図さえ持たずに、テントと寝袋、ピークワンのホワイトガソリン・ストーブぐらいを持って、当時まだ仙台市と合併していなかった泉市のアパートを後にした。

コース

  1. 宮城県泉市のアパートを出発
  2. 会津河東町大竹家に一泊
  3. 群馬県吾妻群吾妻町のキャンプ場一泊
  4. 長野県霧ケ峰キャンプ場一泊
  5. 長野県青木湖キャンプ場一泊
  6. 長野県大町市の山中に野宿
  7. 新潟県奥只見湖キャンプ場一泊
  8. 宮城県泉市のアパートに帰宅

第1日目

できればひとりでツーリングになんか行きたくないという弱気なもうひとりの自分を納得させるには、周囲のみんなに夏休みは一週間バイクで旅をすると宣言をしてしまうに限る。この方法はこの後何度も使った。引き返せないところに自分を置いて何がなんでもやらざるを得なくする。いわゆる背水の陣である。実は小学校の頃から夏休みの宿題をギリギリまでためておいて、ひどいときには前日の夜に一気に書き上げるということばかりやっていた。

一週間分の荷物を250ccのオフロード車に積むと重心がかなり後の上の方に移動する。前日に練習したが、初めはまっすぐにさえ走れなかった。舗装道路でさえこれなのだから、未舗装の林道ではどうなることやら、なんとか練習して慣れた事にした。

朝の通勤ラッシュのおさまったころを見計らって合図に向けて出発。のんびりと福島まで国道4号線を南下する。

このバイクを買ってすぐ、慣らし運転を兼ねて一泊二日のツーリングをした。福島県の東側を走ったが、キャンプ場が見つからずに道路脇の工事現場の奥にテントを張った。水は持っていたので、コールマンのピーク・ワン・ストーブでラーメンを食べた。このときがピーク・ワンを使った最初であった。ホワイト・ガソリンのストーブはガソリンを気化させる為の初期圧力をかけるためポンピングをしなければならない。この加減が難しく、不十分だと気化しないで生ガソリンすなわち液体に点火してしまう。この時も大失敗をしてしまった。

そうやって、練習もしたし、なんといっても今日は寝るところが決まっている。気楽に行こう。

福島から会津までは例によって、土湯峠を越える。かなりタイトなコーナーが続くので、最初のうちは後ろの荷物に振り回されフラフラしていたが、そのうちコツを体が会得したようで下りは楽だった。

大竹の家は学生のときは河東村だったが今は河東町になった。

大竹は奥さんの実家に行って留守だった。何度も来ているので家族同然のような気楽さがある。くつろいで待っていると、奥さんの妹も一緒にやって来た。年頃の女性と知り合う機会がない生活ばかりなので、非常に緊張してしまった。こんなことならば、もう少しきちんとしたなりをしていればよかった。きたないTシャツとよごれたズボンではみっともなく、恥ずかしかった。

 大竹の学校の諏訪部先生も来ていた。大竹はこのころ横浜市の中学の教員をしていた。その同僚で技術・家庭の先生だった。

第2日目

朝、諏訪部先生と一緒に出発した。国道121号線を南下する。会津若松の町は昔の城下町時代のクネクネと曲がっていて直進できない、まっすぐに見通せない道が、このころにはまっすぐな通りができて走りやすくなっていた。なんだか昔の方が懐かしい。

二人で一緒に走っていたが、僕のはオフロード車なので途中で旧国道に折れる為別れた。


人が住まなくなった家はあっという間に生気がなくなり屋根を支えていた柱が折れ屋根が落ちてしまう。道路も同じだ。路は車が通らなくなると急激に老化する。広いと思っていた道も脇から草が侵食して半分ぐらいの幅になってしまう。さらに舗装を持ち上げ、穴を開け、ぼろぼろにしてしまう。

そういう道を走ってみるのも趣があっていい。廃道となって誰も通らない道。峠道にはよく残っている。

穴をよけたり、突然現れる障害物を避けたりして、あまり左右に傾けたので後ろの荷物が崩れてしまった。荷物を積み直そうと寄ったドライヴインで諏訪部先生に追いついた。コービーブレイク。


五十里湖を過ぎたら右側川俣湖という道路標識があったので、僕は右折することにして、また諏訪部先生と別れた。それ以来彼とは会っていない。その後トンガに海外青年協力隊として数年行って、また横浜市の中学に戻っているそうだ。彼も大のバイク好きなのでこのページを読んでくれるかもしれない。そのときはメールください。

川俣湖もまたダムによって出来た湖だ。どんどん進んで行くと川俣温泉がある。ここで林道に入った。ブルドーザーのキャタピラーのギザギザの轍の急な坂道を駆け上る。峠で休憩。ピークワンでお湯を沸かして緑茶を飲んだ。霧で眺めは良くなかった。

下りは快適だった。日光ツーリングでキャンプした光徳牧場を通って日光の戦場ケ原まで降り、また金精峠へと登った。

以前通過したときは何もなかった丸沼高原の入り口は大きな駐車場とたくさんのドライブインでにぎわっていた。ここで昼食。


途中でガソリンを補給しながら沼田まで国道120号線を下り、国道17号線を横切って国道145号線に出た。交通量はぐっと少なくなった。DR250SはSOHC単気筒ということもあり、燃費はリッター40kmぐらい伸びる。もちろんツーリングという特殊条件下でだが、ガソリン・タンクは小さいのでほぼ毎日補給が必要だ。燃料計など付いていないから経験と勘だけが頼りだ。とろこが、これがあまりあてにはならないということを後々何度も経験することになる。


さてそろそろ今日のキャンプ場を捜さなくてはならない。河原の草地などは快適なベッドになるので、川に沿って走りながら捜してみる。あるいは、河原まで降りていってみる。そういう仕事はけっこう時間が掛かり、道に迷ったりして、どんどん焦ってしまう。夕方になってねぐらが見つからないという事ほど不安なことは無い。自分を危険な闇から守る安全な場所を見つける事は我々の祖先が太古の時代から繰り返し経験しDNAに刻み付けた本能なのだろう。

バイク屋さんで訊いたら、町のキャンプ場があるという。


やはり河原だった。町営の為料金は安いので助かった。おまけにテントの持ち込みは出来ないが、既設のテントを使うようにとのことだった。これは楽で助かる。ご飯を炊いてたら隣のテントの家族が見に来た。ホワイト・ガソリンのストーブがめずらしいらしい。キャンプ場ではこのようにちょっとしたことから、誰でも気安く打ち解けられる。男鹿半島でキャンプしたときなどは、食事から酒までごちそうになったこともあった。

第3日目

朝起きて、テントの夜露が乾くまでの時間はゆったりとくつろげる時間でもある。朝ごはんは前夜の残り物とお茶程度にしているので、あとは付近を散歩して過ごすことにしている。前夜まだ日がある内なら良いのだが、暗くなってからテントは張ったりしていると、そこがどんな所なのか、翌朝明るくなってから解ったりする。朝の時間はとても静かである。

今回はテントを畳む必要が無いので、河原を散歩して、お茶を飲んでさっそく出掛ける事にした。

舗装道路をどんどん登っていったらほどなく、未舗装の峠にさしかかった。土がしっとりと湿っている。オフロード・バイクのブロック・パターンをうまく吸収してくれるので走りやすい。乾いていると、土の上の砂で横滑りするが、こういういい具合の時もあるのでオフロードの魅力は尽きない。誰も走っていない朝霧の峠を越えると北軽井沢だった。

軽井沢は観光客でいっぱいだ。車の流れも観光客のノリであちこち止まったり曲がったりで落ち付きが無い。安全第一でのんびり走り、軽井沢から佐久に抜けた。

さて、これからどこに行こうか?長野県の地図を買ってみたら、近くに佐久高原というのがある。ちょっと寄ってみようかと走り出したが、どうも道がわからない。あきらめて途中で引き返した。


八千穂村から299号線で峠を越え、途中で右に折れて白樺湖に出た。周囲をぐるっと回ったが適当なキャンプ場もなく、余りにも観光地化されていてざわついていた。道路は渋滞していて、高原の涼しさなんてどこにあるのやら。

それにしてもこの辺はみな有料道路だ。バイクの場合、料金の支払い動作がやたら面倒である。まず、手袋をしていては小銭の出し入れが出来ないので、それをはずしたり、はめたりの動作がある。乗用車のように小銭入れの皿があるわけではないので、小銭はポケットからの出し入れとなる。場合によっては料金所の手前で脇に寄って停止し、準備をしたり、料金所を過ぎてから脇に寄って停止し、走り出す準備をする。乗用車がすぐ後ろで急かすような気配がすると、けっこう焦ってしまいかえって時間がかかったりする。どうか、そういう事情を察していただきたい。

ビーナスラインで霧ケ峰のキャンプ場にたどりついた。管理棟で登録して、一旦荷物だけを指定されたテント・サイトに運んだ。熊笹に覆われた丘陵の為、自分のサイトからは他のテントはまったく見えない。細いけもの道のような通路をまちがえないようにたどらないと、迷子になりそうだ。


荷物を降ろしたバイクを駐車場まで走らせた。うわーっ!後ろがポンポン跳ねる。重い荷物のための重心移動に慣れてしまったので、ノーマル・ポジションでは感覚が狂ってしまった。急に軽くなって、ひどいジャリ道なので、ちょっと恐かった。慣れというのは恐ろしい。


ご飯が炊けたころには真っ暗になっていた。テントの中に持ち込んでろうそくの灯かりで食べた。このあたりは標高2000mぐらいだ。日が落ちたらいきなり冷えてきた。星はさすがにきれいだった。セーターを着て寝た。

第4日目

寒いけど、すがすがしい朝だった。中学校の団体が来ていて、引率の先生がスピーカーで朝食の準備の指示をしている。朝はパンとジャムだそうだ。

水場の水は冬のように冷たい。そのためか、よけいに熱いお茶がうまい。

八島高原湿原植物群落というのがあって、散歩。ちょっとした、山があったので、登ってみたら絶景!360度のパノラマで富士山やら槍ヶ岳やらぐるっと見渡せた。軽登山靴を履いているのでバイクを降りて散歩するのに便利である。いわゆるバイク・ブーツは歩き用には不向きな角度だったり、底が硬すぎたりして山岳ツーリングには向かない。また、雨にも弱い。ファッション性は捨てても実用性で選んだ方が良い。

美ヶ原高原美術館に行ってみた。すごい!駐車場で迷子になりそうだ。広い!ロープを張ってある中に入るには入場料がかかるので、外を一周して観た。天気も良くて空気は透き通っている。隣の牧場の牛たちもこの高原の風景の中に溶け込んで、異様な彫刻群と対を成して日常の世界との境界を示している。アモーレの鐘が鳴った。

さて、今度はどっちに行こうか?今回のツーリングは道路標識を見ながら行き当たりばったりで決めている。スーパー林道とやらで(有料)松本市まで降りた。

林道というやつにはよく出会う。山の上に突然開けた舗装道路があったりする。誰も走っていないので少々気味が悪いが、いつハンドルをとられて転倒するかわからない石や岩の道よりは安心して景色を見ながら走れるので良い。だけど、誰も走っていない、いや、そこまで登っていくことが困難なところにきれいな舗装道路なんて、そもそも必要なんだろうか?

後にこのあたりを明解に解説してくれる本に出会った。 (猪瀬直樹 『日本国の研究』 文芸春秋 \1238)


そうだ、青木湖に行こう!学生時代に民宿で強化合宿をしたところだ。あの時はマネージャーをしていたので、日帰りで下見に来た事もあった。電車だと距離感がなく、地図もなかったので、実は何処なのかもよく知らなかったが、こんなところにあったんだ。練習の合間、夜肝試し大会なんてやったっけ・・などと想いながら走ってたら、通り越してしまった。いつのまにかバイパスになっていたのだった。青木湖の周りをぐるっとまわって、キャンプ場を見つけた。なんとか一張りの持ち込みということで、入れてもらった。風呂場があったので、さっそく入浴。しまった、シャンプーも石鹸も無い!この失敗の後、常に入浴セットを携帯するようにした。


若者たちでうるさい!大音響で流行の歌のようなものを流して騒いでいる。こんな所まで来て迷惑をかけてるなんて・・といっても、他にどこにも場所は無いのだろう。他人に迷惑を掛ける事で自分の存在を確かめているやつも居るのだ。それよりひどいのは、その連中さえ眠った後で、隣のテントでぶつぶつ行ってるやつだ。高校時代の同級生に東大に入ったやつが一席ぶっている。東大東大とやたらうるさい。自分が以下に優秀かを述べているのだが、隣で聞かされている身にはその精神の貧しさしか伝わってこない。かわいそうなので、いっぱつくらわしてやったら、静かになった。

第5日目

テントの夜露が乾くまで散歩。隣はバツが悪いのかまだ起きて来ない。昨夜地図を見て今日は立山に登る事にしていたのですぐ出発。

大町市まで戻り、大町温泉郷を通ってトロリーバスのターミナルまで登った。ここから先は道が無い。黒部ダムは本当に大きかった。中学校の時体育館で観た『黒部の太陽』を思い出した。途中でかなりの待ち時間があって、いくつかの乗り物に乗ってようやく富山県側の室堂に着いた。実は記録が無いのですっかり忘れてしまっている。ガソリンではなく電気モーターのバスに乗ったりロープウエイで空中を飛んだりした記憶がある。

室堂は雪があちこちに残っていた。山肌は濃い緑色と雪の白でまだら模様をしていた。こんな景色は初めて見る。空気が済んでいるから山がすぐ近くに見える。距離感覚が無くなる錯覚に襲われた。残雪の道を一列に並んで登る。かなりの人が居る。ずっと上まで人の列が続いている。立山の頂上まで続いて折り返して降りてきている。一の倉沢まで登って休憩。カン・ジュースが確か500円だった。このおいしさならもっと高くてもいい。

地図を見ると、さっきロープウエイの駅から室堂まで乗った電気バスのトンネル内の駅まで降りていく道がある。トンネルというのは、この真下、すなわち立山を貫通している立山トンネルだ。一列に並んでぞろぞろとアリのように歩くのは飽きたので、ひとりでそっちに向かった。道とは行ってもわずかにそれとわかるわだちであるが、のんびりとマイペースで歩ける。右は谷間、左は絶壁が頂上へと続いている。崩れてきたらどうしよう!一瞬だが恐怖に囚われる。

高山植物が小さな花を咲かせている。フィルムが無くなってしまった。

一面の雪野原に出た。辺りを見回す。雲がかかってきた。心細さが広がった。

滑らないように注意しながら下って行くと、バス停入り口の看板があった。助かった。階段を降りてゆくとトンネルに入り、バス停があった。管理人がいて、熱いお茶でもてなしてくれた。うれしかった。学生でアルバイトだとのこと。この黒部立山アルペン・ルートは夏だけのものなので、ほとんどが学生アルバイトで運営しているようだ。こんなにりっぱな学生もいるのだ。


バイクの置いてある所までもどったら、18時だった。少し降りて、脇道に入り適当な場所に野宿した。歩いて疲れた。事故で傷めた左足がいたい。

第6日目

小川で顔と食器を洗った。テントを張ったのは道路の真ん中だった。真ん中とは言ってもテントでいっぱいの道幅なので、かえって安全だ。

さていよいよ仙台まで帰らなくちゃ!今日はひたすら走る事にしよう!地図を見ると鬼無里村というのがある。『鬼無里の里』だ。これは行ってみる価値がある。そこを通って戸隠高原で休憩。これまた学生時代の合宿地・野尻湖が近いが、時間が無いのでパスして千曲川に出た。道路も広くなり、交通量も増えた。ツーリングのときは無理な追い抜き追い越しはしないで、ゆったりと流れに乗った方がいい。117号線を十日町で右折し17号線に出た。ますます交通量が増えた。こうして、書いている今、頭の中にはその時の通過する景色が蘇っている。とても古い型のトラックが道端に朽ちていたり、昼下がりの街で子供たちが遊んでいたり。頭の中が映画館のようだ。


右折して奥只見シルバーラインに向かう。途中で民家に寄り、水を分けてもらった。水さえあればどこでもご飯が炊けるから、こうして補給しておく。ところが、留守番をしていたおばあさんに渡したポリタンクが返ってきたとき中に入っていたのはただの水ではなく、冷たく冷えた麦茶だった。さすがに年の功、暑いところを走ってつらかろうとのおもんぱかりだった。ありがとうございます。麦茶でご飯が炊けないはずはありません。


さて、ここで、僕は重大なミスをしてしまった。地図の距離を読み間違ったのだった。奥只見シルバーラインはまだ工事中でジャリ道のくねくね道の為地図で見るよりも距離は長い。タイヤはほとんど空回り状態でどんどんガソリンが無くなっていった。気づいた頃にはガソリンスタンドなど無いところまで来ていた。おまけにもう夕方だ。行けども行けども距離は延びない。

あれ!?

とにかく急停止。「小白沢ヒュッテ」という建物。主人に頼んでガソリンを入れてもらった。「リッター180円だけどいい?」「いや、ぜんぜんかまいません」

この手動のガソリン・ポンプの訳、それはここには電気が無い、いわゆる、送電線が来ていないのだった。発動機の音がダッダッダッダ。これで発電機をまわして、この建物の電力をまかなっているとのこと。 しかも河原はキャンプ場(奥銀山キャンプ場)になっていてとても快適そう!今夜はここに決めた。


ということは、明日の朝仙台の会社には出勤できない。だけどここには電話も無い。なるほど、連絡しようにもできないのだから、しょうがない。

発動機の音は夜9時に消えた。

第7日目

カメラの三脚が壊れた。携帯用にと小さいのを買ったのだが、安物はやはりいけない。キャンプに持って行くのは高価でもしっかりしたものの方が良い。

今回は走りながらシャッターを切ってたら、レンズ・フードを飛ばしてしまったり、立山では途中でフィルムが無くなったりと、カメラにまつわるご難続きだ。


朝の散歩はいつも楽しい。この朝はさらに格別で山の煙の様子が心に残っている。すすきが枯れ始めている。もう秋なのだ。

道路には赤とんぼが一杯だ。バイクが近づいてようやく飛び上がる。赤とんぼの群れの中を顔にぶつかりながら走る。けっこう痛い。このころはジェット型の緑色のヘルメットを被っていた。シールドもゴーグルも無く、そのまま顔にあたってくる。


桧枝岐村まで降りて、「桧枝岐温泉公衆浴場」に入った。朝風呂である。石鹸とシャンプーを買ってこれまでの汚れをすっかり落とした。気分上々。

まだ朝の8時、会社の同僚のアパートに電話して事情を話した。

さて、あとはのんびりと走るだけだ。会津の大竹の家に寄って、すいかをごちそうになった。福島市の事務所に寄って休憩し、そのままアパートに無事戻った。

総走行距離不明。費用不明。平均燃費40km/l

おわりに

これから数年後、テレビのニュースであの「小白沢ヒュッテ」の映像が流れました。電気が通じたというニュースでした。いまでは、道路も良くなってかなり開けているのではないでしょうか?あの発動機の音はもう無いのですね。

1997年11月27日記