1.鉄道と映画

生まれたときから鉄道は身近にありました。僕の生まれは東北の田舎です。宮城県栗原郡瀬峰町の泉谷という部落の真ん中を南北に東北本線が通っていました。


(この写真は当時のものではありませんが、泉谷の北側の踏切で撮ったものです。)

ここで「部落」という言葉を使いましたが、この言葉は今ではあまり使われなくなってしまいました。いわゆる部落問題の部落と混同されるからという訳なのでしょう。言葉狩りのようなものです。行政の方はそれをさける為、古くからの伝統を捨てて、今ではこの部落という言葉にに代わって「地区」という用語に変更しています。運動会では、部落対抗リレーと言ってたものが地区対抗リレーと変更されてしまいました。

そもそも「地区」と「部落」ではまったく意味が違います。前者はその地域を指すのに対して後者は集落・邑としてのまとまりを指すからです。たとえば駅前地区と言った場合は駅前周辺という地理的な範囲を指定して言ってることになるでしょう。ところが、泉谷地区と言った場合には泉谷のあたりということになるわけですから、泉谷部落という集落がまずあるという前提に立っているわけです。矛盾してますね。頭の弱い行政担当者の指導で、生まれた時から「部落」という言葉を知らないで育った者たちには、そのことがまったくわからなくなるのです。

元々、部落の集まりが町であって部落に属さない家なんかなかったのです。それが人権派の言葉狩りをさける為の安易な措置によって伝統をくずされてしまったというのは、まったくなげかわしいことです。あきれてしまいます。


さて、その泉谷は江戸時代初期1650年ごろに伊達政宗の家臣橋本宗円公の家中屋敷として人工的に出来た部落です。人工的というのは、農家等の集落のように自然発生的にぽつりぽつりと家が出来てきたというのとは違って、初めから各々の屋敷の区画と位置を計画的に区切って一斉に作り上げた集落という意味です。

この泉谷の中心に橋本公の屋敷がありましたが、東北本線がその真ん中を分断するように通った為にそれはすっかり無くなってしまいました。小高い丘の上の屋敷であったのですが、その丘はくずされてその土は泉谷の北に広がる田園の中を通る鉄道の土手として使われました。実際にはそれだけでは足りずに、線路脇の地面を掘り返したなごりが堤(つつみ)と言われるいくつかの池となって残っています。この堤では子供の頃よく釣りをしたものでした。

泉谷のど真ん中を東北本線が通っているわけですから、日常的に踏み切りを通過することがひんぱんです。ちなみに、線路の西側を上(かみ)、東側を下(しも)と言って区別しています。上から下へ、またその逆へと老いも若きも関係なく鉄道を横切って生活しています。今では踏み切りといえば自動の警報機と遮断機が設置されていますが、子供の頃はそんなものはありませんでした。汽車が来るかどうかをしっかりと自分の目と耳で確認して渡ったものです。しかもそのころには東北本線は複線になっていました。なにしろまだ、東北を縦断する国道四号線の幅を広げて舗装工事をしていた頃ですから、まだまだ自動車輸送の時代ではなかったので列車は今よりも連結が長くて本数が多かったものです。

そうなると、当然事故の確率は高くなります。踏み切り事故を未然に防ぐ為の方策として国鉄は泉谷のように鉄道沿線に住む子供たちの安全教育の為、鉄道愛護子供会という組織をつくりました。たぶん全国的なものだとは思うのですが、当時そんなことは知るよしもなく、泉谷のことしか知りえませんでしたが。


その鉄道愛護子供会は実質的には子供の組織ではなく、泉谷の全部の住民を対象にしていたものでした。夏休みに教育映画の上映会をするのです。ただ教育映画を上映すると言っても自主的に集まるわけなんかありませんから、人寄せの為に娯楽映画もやります。映画の上映と言ってもちゃんとした映画館なんてありませんから、踏み切り脇の平(たいら)さんの屋敷の庭に稲杭を立て、大きな白い布幕を張ってスクリーンをつくり、夜になるのを待って映写するのです。

その日は泉谷のみんなにとって一年で一番待ち遠しい娯楽の日です。夕方までには各家ごとにその庭に筵を敷いて集まります。まずは国鉄から来た人などのえらい人の話とか、本来の安全教育の映写がありますが、楽しみにしているのはその後です。当時の流行の映画がどんなものかなんて全然知りませんでしたけど、街に行ったらそういうものが映画館で観られるのだろうなという娯楽映画が始まるのです。

今思えば、既に映画館での上映は終わっていた古い映画だったのでしょう。よく憶えているのは美空ひばり主演のものです。特に美空ひばりが会津の白虎隊の墓で歌うシーンはなぜか目に焼きついています。泉谷の住民みんなが夜空の中に浮かび上がる映像に心を奪われたものでした。確か二本ぐらい続けて上映したと記憶してます。僕にとって映画というのは、こんな風に夏に野外で観るものだったのです。そしてまた、映写機に取り付けられたフィルムのまわる様子だとか、交換するときなんかしばらく待たせられる間の映写技師の働きなんかとても興味深いものでした。


こんな事がいつから始まりいつまで続いたのか、はっきりはわかりませんが、僕の小学生時代だけだったように思います。また、そのおかげでしょうか、踏み切り事故はまったくありませんでした。ただ飛び込み自殺だけは防げませんでしたが。

2004年4月21日記