北海道の巻(1)

1986年8月

はじめに

バイク・ツーリングをしている人ならば誰もがあこがれる北海道ツーリング。北海道はあまりにも大きく、あまりにも遠く、なかなか行けるところではありません。なにしろ本州とは道路が繋がっていないので、バイクを船に乗せなければならないのですから。

そのころ、仙台市に住んでいたので、東京よりは往復で二日分近いとはいうものの、普通のサラリーマンにはとても行ける距離ではありませんでした。

ところが、どうしたことか独立して小さいながらも経営者となってしまったものですから、半年間休み無く働き、余裕を作って仕事を休み、いざ出発ということになってしまったのでした。

コース

  1. 宮城県仙台市を出発
  2. 宮城県瀬峰町の実家に一泊
  3. 青森県三沢市小川原湖キャンプ場に一泊
  4. 大間からフェリーで函館に渡り洞爺湖のキャンプ場に一泊
  5. 積丹半島の海岸キャンプ場に一泊
  6. 札幌ラーメンを食べて旭川のキャンプ場に一泊
  7. サロベツ原野を通り稚内の丘の上のキャンプ場に一泊
  8. 紋別市のコムケキャンプ場に一泊
  9. 美幌駅前の民宿に一泊
  10. 屈斜路湖、摩周湖、阿寒湖を見て女満別の大場宅に一泊
  11. 乗用車で知床半島、根室原野、摩周湖を回り大場宅に二泊目
  12. 大雪山、旭川を抜け中富良野の丘の上のキャンプ場に一泊
  13. 北の国から』黒板五郎の小屋を見て札幌の田島宅に一泊
  14. 洗濯したり映画を見たりで休養し田島宅にもう一泊
  15. 北桧山の叔父宅に一泊
  16. 函館からフェリーで大間に渡り、小川原湖キャンプ場に一泊
  17. 宮城県瀬峰町の実家に一泊
  18. 仙台市に帰宅

第1日

毎度のことながら、旅立つ前はいやなものだ。出来れば行きたくないと思っているのであり、前日までの大雨がこのまま止まなければいいのにと祈っていたものだ。ところが、川の増水はまだまだひきはしないもののなんとか道路は走れるみたいに雨が止んでしまった。いつもの倍の期間ではあっても、荷物は同じだからパッキングはすぐ終わった。とにかく今日は50km先の実家の瀬峰までだから簡単に着けるだろうと出発。

4号線を古川まで走り瀬峰に曲がるあたりで道路が水に潜っている。あちこち回り道をしてようやく着いたものの、この先どうなるものやら、不安はつのるばかりだ。

田んぼはすっかり海のように水没している。自転車で見回りに行ってみると、「本日予定されていた空中散布は中止です。各自で行なってください」という放送があった。おいおい、それはないだろう!もともと各農家では人手が足りなくなり、ヘリコプターの空中散布しか方法が無いのに。

この町内の至る所、半鐘の櫓のような塔に設置されたスピーカーによる放送(正式には何というものやら、一体いつ頃から始まったものやら不明)は内容がほとんど意味不明のものばかりである。誰の権限で放送内容を決めているのかは知らないが、知性のある人とは思えない。そもそも、風の音などでほとんど聞き取れない。家の中に居ればテレビの音などで100mも離れたところのスピーカーで何を話していようが何も聞こえない。どうせ誰も聞いてないのだからと、やけっぱちでがなりたてているのかもしれない。日本全国津々裏々このような無駄な金が捨てられている。やっぱりそれだけお金の余裕があるのかもしれない。

第2日

7時出発。迫町を抜け本吉町で45号線に出る。霧が立ち込めていて寒い。と思ってたら降ってきた。道端でカッパを着る。45号線は交通量は少ないが、曲がりくねっていて雨の日はちょっと危険なカーブがつづく。そこを荷物満載で重心が極端に後ろに移動しているアンバランスなオフロード車で走るのだからこわい。

夏のツーリングは半分は雨に祟られる。雨の中の走行は体中の熱を奪い、ガタガタ震えるくらいに冷えることになる。その上、ワイパーなど無いのだから視界が悪い。路面は滑る。どれぐらい滑るかというと、60km/hの時なら20mは軽い。白線の上なんか氷の上と同じようなものだ。とにかく、白い部分はこわい。

八戸あたりで完全に晴れた。だけど空は暗い。山瀬の影響だろう。

キャンプ場には明るい内に着いて余裕を持って湖畔にテントを設営した。ここは2回目だから慣れたもので、我が家同然だ。木の名前だって知っている。このテントの上に葉を垂れているのはねむの木だ。小川原湖は米軍三沢基地のすぐ近くである。キャンプ場一帯に極東放送が流れている。

すぐ近くでご飯を炊いているおじさんがいた。話し掛けたら、北海道からの帰りだと云う。僕が興味を持ったのは、ご飯を炊いている火器だ。僕の使っているホワイト・ガソリンの頑丈なものとは違い、いたってシンプルで、扱い安そうだ。果たして訊いてみると、ガス・ストーブだとのこと、「いまどきそんなホワイト・ガソリンなんて面倒でつかってられないよ!」とわらわれてしまった。技術は進歩していたんだ!

とはいうものの、旅先ではいかんともしがたく、このままホワイト・ガソリン・ストーブを使い続けるのであった。ガソリンを気化させる為の圧縮(ポンピング)にはほんとに手を焼いた、いや焼く前に痛くなってしまうのだった。

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