日光ツーリングの巻

1977年10月

はじめに

ほんとは東京都の教員採用試験の日だったのだが、ツーリングに行くことにした。10月10日のことだった。

宮城県の試験ではあまりの疲れのためぐっすりと寝込んでしまったので、どうも試験恐怖症にかかったらしい。あとでわかったのだが、みどり荘の物理学科3人でそれぞれ千葉(僕)、横浜(大竹)、東京都(佐々木亨)と仲良く別々に合格していた。

コース

  1. 千葉県野田市のみどり荘を出発
  2. 栃木県戦場ケ原のキャンプ場に一泊
  3. 群馬県片品村を通ってみどり荘に帰宅

第1日目

大竹一弥と佐々木亨は朝早く試験に出かけていった。大竹は僕を起こしに来たが、だだをこねて起きなかった。

休日のみどり荘は静かである。おばさんが「朝ですよぉ〜。授業が始まりますよぉ〜」とやってこないからだ。そのまま昼ちかくまで寝てしまった。田中和男が窓を開けて入って来たので起きた。天気が良かったからツーリングに行くことにした。

CB450はバンパーやサイドバッグなどよけいなものをはずしたのですっきりと身軽になった。これにツエルトと寝袋をくくりつけて走り出した。出掛けに田中が写真を撮ってくれた。

群馬県桐生市に入ると寒くなった。路上を落ち葉が舞っている。草木ダムというところで休憩。TL125をロード仕様にした女性ライダーと遭った。

今ではめずらしくない女性ライダーだが、このころは掘ひろ子さんの影響でようやく女性もバイクに乗るようになったような時代だった。掘ひろ子さんは日本の女性ライダーの草分けであり、美人で男性の間でも人気の的だった。サハラ砂漠を走ったりしてTV番組『徹子の部屋』にも出た。実はこのツーリングの後、東京モーターショウで見かけた。若くして逝ってしまわれ無念であったろう。

その女性ライダーと足尾まで走り、僕は中禅寺湖へと登っていった。後に手紙が届いたがひとつ年上の社会人だった。このころ僕のまわりの女性といえば皆年上ばかりで、同級生といっても2つも年上だった。

いろは坂料金所のおじさんが「上は寒いぞ」と言っていた。まったくその通り。でも、いろは坂を登るにつれ、紅葉がどんどんきれいになる。夕日と紅葉で山が燃えているようだ。

華厳の滝など眺めていたら日が暮れてきた。どうしよう!まだねぐらを見つけていない。

空腹を満たす為入ったレストランの裏手がキャンプ場だった。ヘッドライトの灯かりでツエルトを組み立てて寝袋に潜り込んだ。寒い。余りの寒さに夜中に起きてみたら、満天の星。テントの周りをなにやらガサゴソと歩き回ってる。まさか熊じゃないだろう。

第2日目

昨夜はまったくわからなかったが、ここは牧場だった。なんとテントは僕のだけ。たった一人のキャンプ場だ。夜露が乾くのを待ちきれずに出発した。すぐ近くの湯元温泉で湖を散策した。紅葉がきれいで写真をいっぱい撮った。数日後まったく同じ画像がテレビのニュースで流れていた。

家庭教師に行っている家でそれを見かけて感激したのを覚えている。ぼくのカメラは相変わらず妹の喜恵子から借りたものだったけど、良く撮れていた。

金精峠を登って丸沼高原を降りてゆく、このあたりはまだ開発中だったが、10年後に通ったらまるで変わっていてびっくりした。

落ち着いた感じのドライブインで朝食を取った。ここで地元特産の「なめこ」を買って家庭教師をしている家にお土産にした。結局は自分が食べる事になるわけである。

前年に高校生と小学生を教えたが、この年は小学6年生を教えていた。小学生とはいっても東京の私立であるから、僕の田舎の小学生時代とはまるで違う。なにしろひとりで電車に乗って通っている。僕がひとりで汽車に乗ったのは中学に入ってからだった。勉強の量が違う。中学に入る為に試験勉強をするなんて考えられなかった。田舎の瀬峰町には小学校も中学校もひとつしかなかったのだから。この小学生は高岡弥生と言った。「やっちゃん」と呼ばれていた。いくら勉強ばかりとはいってもやはり小学生である。少女まんがが好きで『ガラスの仮面』などを貸してくれた。僕が教えたのは、鉛筆の削りかた、空の星の見方など都会の子どもの知らない事ばかりだったので、とても新鮮だったようだ。めきめきと成績が伸びて、僕は給料が上がった。

片品村を通って沼田市まで一気に下る。CB450はサスペンションがまるでだめで、路面のうねりをよく拾う。断崖絶壁のコーナーは恐怖である。現在のバイクはサスペンションが実によく出来ていて操縦しやすい。路面の荒れなどほとんど気にならないくらいだ。ところが、まだまだ舗装など少なかった時代のバイクは申し訳程度のスプリングが付いているだけの、ガタガタ・サスペンションだった。ストロークは短く、ダンパーがほとんど効かないので、路面の状態がそのまま腕に体に伝わって、バイクの運転は格闘技のようなものだった。

みどり荘に着いたら、妹の喜恵子が来ていた。

部屋をすっかり片づけてくれていた。何がどこにあるのやらさっぱりわからなくなってしまい、実に困った。平机に座るとすべて手の届く範囲に本が配置してあったのを、散らかっていると勘違いしたようだ。これは大事な事なのである。狭い四畳半の為、それらの本の上に布団をしいて寝ていた。それ程、本の配置というのは整然と整理されあるべきところにあるように考えてあったのだ。わが妹ながら、女というものはこのように男の繊細さを解さぬところがあるものだと思い知らされた。

妹はすでに働いており、ときどき兄にごちそうしてくれた。この日も鍋にしようということで、田中と一緒に準備をしていた。部屋は荒らされたが、腹はいっぱいになりうまかった。それにしても匂いを嗅ぎ付けてどんどん人が集まり、大騒ぎになってしまった。

登場人物

(前掲は省略)

佐々木亨

同じ物理学科。岩手県前沢町出身。最初隣の江戸川台のガレージの上に住んでたが、夜逃げのようにみどり荘に転がり込んだ。仲間内では裕福な生活をしてて冷蔵庫を持っていた。現在は東京都の中学教諭。

おわりに

どこがツーリング・リポートだ?というような内容で申し訳ない。お決まりの「本日走行距離xxxkm」というのは20年も経っているのでまったく不明である。

このみどり荘というアパートはどうも普通のアパートとは違うなと気づきましたか?いつか「みどり荘青春記」のようなものを書こうと思うのですが、ちょうど『めぞん一刻』の一刻館のようなものと想像していただいて間違いありません。

1997年11月5日記