東北第一回目の巻
1979年8月
はじめに
なんとか、卒業はしたものの、交通事故の為に、せっかく合格した千葉県の教員を辞退し、田舎に戻って、アルバイトを始めた。一年間やったら、正社員になってしまい、そのまま居座る事になってしまった。25歳になっていた。
学生時代から乗っていて、事故も一緒に体験したCB450K1を下取りにしてYAMAHA GX250を買った。既に、前年の冬、雪の中の片道20kmの通勤はさすがに危ないので乗用車の免許を取り、中古車に乗っていたのだが、二輪車と離れるつもりはなかったのだ。
毎月安定した収入が入るようになって、初めての夏休み、2泊3日の東北ツーリングに出た。
コース
- 宮城県栗原郡瀬峰町を出発
- 秋田県男鹿半島の戸賀湾に一泊
- 青森県八戸市の種差海岸に一泊
- 国道45号線(三陸海岸)を下って帰宅
第1日目
GX250を買ってまだひと月ほど、今回は慣らし運転を兼ねて東北を一周して来るつもりだ。現在のようにキャンプ場情報などほとんど無い時代だったので、地図に書いてあれば良い方で、ほとんど地元の人に聞くか、交番で教えてもらうという方法で捜していた。そういうわけで、今回もだいたいのルートを東北地図一枚で見当を付けながら、その場で判断しようと、出かけた。
荷物は、極端に少なく、ツェルトとアルミ・ポール2本、マット、寝袋という寝具一式。火器はまだ持っていなかったので、食料はおにぎり。着替えとパンク修理道具一式ぐらいだった。それに、カメラとフィルムとサイフ。まだクレジット・カードやバンク・カードなんて聞いた事もなかった。
鳴子ダム(荒雄湖)を越えて仙秋ラインを通り秋田県に入り、湯沢警察署で休憩。地図を見ていたら、警察官が大曲市までの近道を教えてくれた。国道13号線は混むというので、脇道を行くことにした。国道の騒がしさから離れて、田舎道をのんびりと走るのは大好きだ。土地土地の暮らしぶりや、匂いの中を体が透明になって駆け抜けてゆく感じだ。特に、夏のお盆の時期はその土地の風習の違いがわかる気がする。
大曲市で国道13号線にもどり、また集団移動の列に加わる。暑いので、喫茶店で休憩した。まだビールを飲む訳にはいかない。
秋田市に入ると、車の洪水である。信号で隣に止まったダンプの運ちゃんが声を掛けてきた「どっからきたんだ?」「宮城県の瀬峰からです」といってもよくわからないらしく、にこにこ笑ってた。
Kawasaki KZ1300を初めて見た。でかい!牛のようだ。とてもついていけない加速で飛び出したが、すぐに脇に止まった。寿司屋のおやじらしい!
国道7号線を男鹿半島に向かって左に折れると交通量は少なくなる。しばらく走ると海が見えてきて、大きな橋にさしかかった。日本海と八郎潟、正確には、八郎潟調整池との水路になっているところだ。道は空いていてまっすぐなのに、なんだかとてもさびしい気持ちになってきた。荒涼とした景色はそのまま心に反映するらしい。
寒風山というところに登っていくと、すばらしい展望台があった。でも、霞んでいて景色はよく見えない。バイクがいっぱいいた。バイクに乗って旅をしていると、こんな時にすぐ声を掛けやすい気持ちになる。みんなそうなんだ。それまで、孤独な時間を過ごしてきた分だけ、開放的になるのだろうし、そんな孤独な旅をしている同士なのだという仲間意識が働くのだろう。3人そろって、男鹿半島先端の灯台のある入道崎まで走った。途中でそろってガソリン補給をした。こんなことまで、どうして覚えているんだろう。彼らの顔はまったく覚えていない。顔なんか見ないのだ。ヘルメットをかぶってるし、会話にしたって、声がちゃんと聞こえるわけでもない。心が伝わっているのだ。
入道崎からひとりでもどって、戸賀という漁村に降りた。ここにキャンプ場があると聞いたのだ。捜してみたら、なんと海岸の砂浜だった。テントを張るサイトとして最適なのは何と言っても草地である。ふかふかで気持ち良くて、マットもいならいくらいだ。
次には、普通の土の上。まったく普通で何の問題も無い。次に、岩場、マットがあれば、多少斜めだろうが、なんとか大丈夫。
だけど、どうにもならないのが、砂場だ。海岸の砂の上にどうやって、テントを張るか。しかも、最近のドーム型のように、床と一体式にもなっていない、簡易式ツエルトを日本のポールを使ってテントとするのだから、一瞬たじろいでしまった。
そこで、手ごろな石ころを4個拾ってきて、これにロープを括り付け、砂に埋めた。なんと、うまくポールはまっすぐに立ってなんとかテントのように見えるではないか!ところが、問題は内部である。どうやったって、砂だらけ、シートを敷いて、も間が開いているので、そこからどんどん砂が入ってくる。入り口からも風邪で砂が入り込む。
近所のパン屋さんで、パンなどを買ってきて軽く夕食をとっていたら、隣の大きなテントの人たちから誘いを受けた。秋田市内から二家族でやってきていて、バーベキューやら、鍋やら、すごい量の食料だ。そしたら、やはり近くでテントを張っていたもう一人のライダーも一緒に呼ばれて、ごちそうになることになった。まずはビールを浴びるほどごちそうになり、たらふく食べる事もできた。そのうち一升瓶の日本酒を回しのみということになって、お互い何の話をしてるのやら、何を歌ってるのやら訳が分からないうちに、気が付いたら、砂まみれになって、自分のテントの中で目がさめた。
第2日目
まだ頭がふらふらする中、支度をして出発した。後でお礼のハガキを出した。
男鹿半島の北側の付け根の部分の古い町並みを通り抜けると、八郎潟に出る。ここは僕が子供のころ、国営の干拓事業が始められた。戦後の食糧難は深刻なものだったから、米の増産の為の一大事業であった。全国から入植者を募集し、大規模・機械化による近代農業の先鋒となるべく、期待されていたものだった。ところが、まもなく米が余りはじめ、政府の減反政策というものによって、当初の目的は大転換をさせられてしまったのだった。
そんな景色を右手に見ながらのんびりとバイクを走らせた。
能代市の手前で右に曲がり米代川沿いに大館へと向かった。暑いのでTシャツのまま走っていた。途中、手ごろな河原に降りて休憩した。水はきれいで、顔を洗いながら飲んだ。湿度はないかけど、日差しは強く、気温は高そうだった。こんなときは、とても疲れる。水分が肌から直接蒸発するので、気化熱を奪い、走っているときは涼しくて気持ちが良いのだが、後々大変な体力の消耗であることに気が付くのである。
大館市から北上して長峰というところで、右折して峠を登っていくとリンゴの木が道路の両側から出ていて、手を伸ばせばひとつふたつ簡単に採れそうな具合だった。なるほど、もう青森県である。見渡す限りのリンゴ畑。峠でしばし休憩。
十和田湖に降りてちょっと休憩しようと思ったら、SUSUKI GT750が平走してきたので、ついつい一緒に走って、そのまま奥入瀬を登り、十和田市まで一緒に走ってしまった。信号で停止したときに話をしたが、地元のライダーで、よく十和田湖に走りに行くということだった。
一緒に走っているうちは、心理的なシンクロ状態があり、安心感があるのだが、別れて一人になると、前方の空の下の方に灰色の雲のようなものが広がっているのが、やけに不安感を感じさせる。東に向かうにつれてそれはどんどん高度を増し、やがて、天頂まで届かんとしている。これが山瀬である。とたんに、空気は冷えてきて、風が吹いてきた。八戸市に入る事には夕方になっている事もあり、どんどん冷えてきた。
あちこちキャンプ場を捜しながら走り回った。太平洋岸の崖淵を走っていると「ボー・ボー」という音、霧の警報らしい。道路もよく見えない。崖から転落したら・・と考えると恐ろしい。ようやくのことで、種差海岸キャンプ場を見つけた。なんと、道を聞こうとして立ち寄ったタバコ屋の向かい側がそうだった。山瀬の霧でほとんど何も見えないくらいだ。
他のテント郡からずっと離れた場所に陣取り早めに寝た。とても疲れた。
第3日目
夜が明けてもまだ、霧だった。それでも、昨夜よりは良い。あらためて、散歩しながら、オホーツク海から押し寄せてくる山瀬に寄って太平洋の岸壁にこびりつくように生えている苔のような緑に覆われた付近の風景を楽しんだ。
さて、ここから45号線に出て南下する。すぐに岩手県に入る。YAMAHA TX650がすごい勢いで追い抜いていった。頑張って追ったがだめだった。このあたりは信号は無いし、道路はほとんどまっすぐで、高速道路のようなものである。まあ、急ぐ旅ではないゆっくり走ろう。
久慈市を抜けて野田村、普代村を抜けるといよいよ陸中海岸特有のリアス式の様相を呈してくる。すでに45号線はその海岸線を離れたり、場合によっては海の上を走ったりのまっすぐな新道に変わっていた。したがって、すばらしく走りやすい。途中、どの辺りなのか、今もって不明なのだが、すごい吊り橋がある。もちろん橋の真ん中で停車して下を見たりしては行けないのだけど、やっぱりみんなやっている。僕もつられて、写真を撮ってしまった。
釜石を過ぎて大船渡市への下りのカーブで前を暴走族風のグループがフラフラ走っている。取り囲まれたら危ない。一気に抜いて町の中へと入った。まあ、昼に走っているくらいだから、そんなに危ない連中では無いのだろうが、関わりになるのは危険である。
学生のとき九十九里浜付近で、連中がたむろしているところを通りがかったことがあった。広い路肩に数十人いたのだが、中の一人が突然僕の前に飛び出して来て、足を出した。危機一髪避けたのだが、転倒しても、怪我をさせても半殺しは避けられなかったのではと、ものすごい勢いで逃げた記憶がある。
弱いやつほど群れたがる。群れると集団心理で残酷さが押さえられなくなる。
そんな事件が後を絶たない。君子危うきに近寄らずで、ソロ・ライダーのみなさん!気を付けましょう。
陸前高田市を過ぎて路肩に涼しい木陰があったので、バイクを停めて、しばらく昼寝した。走ってばかりで疲れた。元気回復して走り出したら、どんどん道が込みだしてきて、家に着いたのは、18時だった。
おわりに
あいかわらず、走行距離不明、平均燃費不明、費用不明である。このころのキャンプ場の相場は一張り200円程度だったと記憶している。
GX250はとても穏やかで乗りやすかった。前後輪ともディスク・ブレーキでとてもよく効いた。後にこのバイクは弟にゆずって、僕は念願のTX650を手に入れたのだった。
1997年12月14日記