東北第二回目の巻
1985年8月
はじめに
十日間のの夏休みである。今回は同僚が岩手県盛岡市に転勤になり、夏には早池峰山に登ろうということで、東北一周ツーリングをすることにした。前日は荷物の準備と足りないものの買い出しであわただしく、例によってコースの検討などしないまま、東北全県の道路地図一枚を持って出発してしまった。
そして、この旅の間にあの飛行機事故が起きたのだった。
コース
- 宮城県仙台市を出発
- 秋田県男鹿半島のキャンプ場一泊
- 青森県十三湖畔の駐車場一泊
- 青森県小川原湖のキャンプ場一泊
- 陸奥湾沿岸のキャンプ場一泊
- 青森県十和田湖のキャンプ場一泊
- 岩手県早池峰山の中腹ガレ場に一泊
- 宮城県瀬峰町の実家に一泊
- 仙台市に帰宅
第1日目
Suzuki DR250Sに満杯の荷物を括り付けて出発。国道48号線で作並温泉、関山峠を越えて山形県に入り、東根市で国道13号線に入る。そのまま最上川とともに北上して舟形町まで一気に走った。暑い。道端でスイカを売っていた。一切れだけ分けてもらって食べた。山形のスイカはうまい。
新庄市からは西に折れて今度は最上川の左側を走る。途中で橋を渡り庄内平野を北上する。鳥海山が見えてくる。西側は海なので、その裾の曲線が優美に見える。国道7号線に入りぐんぐん北上するが、だんだん車が増えてきてとうとう動かなくなってしまった。片側一車線しかなく、路肩がない。側溝に落ちないように、車に接触しないようにと細心の注意を払いながら進む。秋田市に入ると2車線になり渋滞は解消。そのまま男鹿半島に突入する。途中の大きな何でも屋でビーチ・サンダルを買った。前回砂浜でキャンプしたときに砂まみれでひどい目に会ったことを思い出したのだ。
今回は寒風山には登らずに半島の南側を走った。途中にキャンプ場があった。今回は海を見下ろす絶壁の上の草地だ。これなら快適である。さっそく荷を降ろしてテントを張る。
キャンプ場にはテント・サイトまでバイクのまま入れる所と、そうでないところがある。ここは後者だった。こういう場合は、まず。駐車場にバイクを停めて、歩いてサイトを捜す。場合によってはかなり歩くので、決めるまでは荷物は持たない。ヘルメットは手に持って、デイパックは背負ったまま歩き回る。
テント・サイトにも選択の自由がある所と無いキャンプ場がある。後者は、管理人から指定される場合と、そこしかサイトが空いてないという場合がある。今回は前者だった。
まだ日が沈む前なので十分に空きがある。バイク・ツーリングをしている先客が居た。すでにテントを張ってくつろいでいる。そこから10m程はなれた平らな草地を今宵の宿と決め、ヘルメットとデイパックを置く。ここは自分の場所だぞという領有宣言である。バイクまで取って返し荷物を運ぶ、これが結構重労働である。安物のテントなのでかなり重い。火器もホワイト・ガソリン用のストーブを使ってたから目方はかなりあった。
食事を済ませたら。例のライダーが声を掛けてきた。一緒に売店に行ってビールをしこたま仕入れて飲んだ。日本海に沈む夕日を眺めながら。
第2日目
男鹿半島先端の入道崎の灯台は数年前に来たときと同じに白と黒の横縞模様で立っていた。灯台といえば真っ白というイメージがあるのだが、どうしてここの灯台はこんなふうに白黒の縞模様なのだろう?
前回は能代市から内陸に入っていったのだが、今回はそのまま日本海に沿って北上した。八森町を抜けたあたりで、道端でイカを焼いていた。プリンプリンとしてうまかった。こんな焼きイカは初めて食べた。昨夜の海面に浮かぶイカ釣り舟の灯かりが思い出される。
県境を越え青森県に入る。交通量はずっと少なくなって走りやすい。津軽十二湖自然休養林へと右折して見学。原生林として有名な白神山地の北側にあたり、その雰囲気だけでも味わえるかなと思ったが、俗っぽく観光地化されていた。
また引き返して日本海を左に見ながら北上。深浦というところで、日本海に突き出した岩場があり、ちょっと遊んで見た。ほんとに小さな岩がぽつんと海に浮かぶようにあって、そこまで歩いて行ける。空は真っ青で、空気は澄んで、カラッとしている。気分爽快。しばらくのんびり。ここで、他のライダー二人と意気投合し、同行することになった。
津軽平野に入ると雰囲気一転。まさに北国。空も曇って来た。十三湖あたりでキャンプ場を捜したが、見つからない。小泊村まで行って交番に寄ってみた。なんだか、大勢でワイワイやっている。お盆の交通整理か何かの為に警察官が大勢集まっているようだ。その内の一人にキャンプ場は無いかと訊いてみたがよくわからないという。少し先まで行ってみたが結局無いようなので引き返して十三湖のほとりの駐車場脇にキャンプすることにした。トイレもあるし水もあるし充分だ。
各自テントを張ってから、僕は食事を作ることにして二人にビールを買い出しに行ってもらった。戻ってきた二人はごきげんである。なんと旅館の主人があとで風呂に入りにいらっしゃいと言ってたというのである。さっそく食事を済ませて出かけて行った。なるほど、ここは十三湊(とさみなと)といって江戸時代には北前船の寄港地として栄えた港町である。いまではさびれているものの歴史のある街なのだ。これが只で旅館の風呂に入った最初であった。
埃にまみれた体を洗ってすっきりとしてもどってきた。せっかく買ってきたビールを二人は飲まないのだと言う、飲まないビールをわざわざ買いに行ってくれたのか、申し訳ないことをした。その分ご飯をごちそうしたから、まあゆるしてもらおう。ひとりでビールを飲んでたら、一人がラジオを聴いていて「なんだか旅客機が行方不明らしい」と言っていたが、僕は三人分も飲んでしまい気にもせずに眠ってしまった。
第3日目
未明から雨になった。夜が明けても降っている。いつもなら起きる時刻になっても、これじゃ気が進まない。テントの中で全部支度をしなければならない。これが一番困るのだ。とにかくいつまで待っててもやみそうにないので支度をして出発する。これから先の小泊村から先は地図に道が載っていないが、なんとか竜飛崎までは行けそうである。他の二人はオフロードは恐くて走れないというので、ここで別れることにした。
津軽半島はかなり険しい。小泊村から先は急な上りになり、途中から舗装が切れた。この先道があればいいのだが。雨の中で寒々とした日本海が眼下に広がっている。下りコーナーの途中で何か黒いものが見えた。人だ。バイクと一緒に寝ている。声を掛けて通り過ぎるときに起き上がったので、たいした怪我では無さそうだ。
竜飛崎の灯台の駐車場に着いたら雨があがった。というよりも、ちょうどこの岬部分だけが晴れているのだった。さっき転んでいたライダーが遅れてやってきた。笑っている。一緒に灯台まで歩いた。
竜飛崎は船の舳先のように海面からそそり立っている。とつぜん、ガガガーッという大音響が鳴り響いた。何が起こったかわからなかったが、目の前を右下から戦闘機が二機飛んで来て、あっという間に見えなくなった。三沢基地のF16のようだ。あまりに突然で写真も撮れなかった。飛んでいる姿をこんな間近に撮れるなんてめったに無いチャンスだったのに。
そこから青森市までは、もっとひどいどしゃ降りになった。陸奥湾に沿って走る道沿いは黒い家並みが続いていた。途中ブレーキがロックして危うく信号で止まっている車に追突するところだった。思い切ってブレーキ・レバーを一度放し、またじわーっと握ったら停止した。ぶつかったと思った。何の衝撃もないので、よく見たら10cmほど間が空いていたのだった。何メートル滑ったのだろう。雨の舗装道路はスケート・リンクのようなものである。ショックで走れないので、しばらく道端で休憩した。
ところで、このSUZUKI DR250Sにはどうしようもない欠陥がひとつだけある。それは雨の中を走っていて止まるとエンジンがストップして、いくらキックしても当分はかからないということである。これにはまいった。
青森市を抜け浅虫温泉も雨の中、さてどこに行こうか?あても無い旅である。ようやく雨が上がって、ぐんぐん気温が上昇して元気も出てきたので、三沢市を通って小川原湖に到着。ここにはおおきなキャンプ場がある。広いキャンプ場は気持ちが良い。
第4日目
小川原湖を後にして尻屋崎へと向かう、途中の海岸沿の林の中はいたるところ立ち入り禁止の標識が立っている。
むつ小川原原発の建設予定地なのだなと思い走る。交通量はほとんど無い。ほとんど一人で走ってるようなものだ。小さな町をいくつか過ぎて尻屋崎に到着。ここは個人の所有らしく牧場になっていた。牛がのんびりと歩きまわっている。昨日の雨で濡れた衣類を草の上にならべて乾かした。足元から太平洋が広がっている。
そこから戻って恐山に向かった。
着いた頃はとんでもなく暑くなりとても歩き回る元気はなくなってしまった。中に入るのはやめて、涼しい林道に分け入ることにした。林道のなかでもここは本当の林道らしく、ひとつ間違えば崖から転落してしまうような、危険がいっぱいスリル満点の道だった。もちろんガードレールなんて無い。深山幽谷の雰囲気に浸っている余裕も無く必死で走り、薬研温泉に出た。ここから大間崎まではすぐだった。
なるほど、ここが本州最北端の地か。よく見ると、百メートルほど先の海の中に小さな岩がある。あそこまで橋をかけたら?などと思いながら、こんどはこの海峡を渡って北海道を走ろうと誓った。すぐ近くにフェリー乗り場がある。果たしてその数年後にそれは実現したのだった。
下北半島の西側を回って陸奥湾へと抜けることにした。途中は未舗装の狭い道で750ccのバイクでよろよろ走ってる人がいたが、こういう点ではDR250Sはほんとにお気楽である。どんな悪路でもまったく気にならない。雨が降らない限りはまったく快適である。仏ケ浦を通り脇野沢村で陸奥湾に出た。
ここから先はまっすぐな舗装路でどんどん進む。そろそろ夕方である。途中にキャンプ場があった。海岸の林の中である。400円だった。200円ぐらいのところがほとんどだが、まあいいや。テントを張ってからおかずを仕入れに出かけた。ようやく小さな雑貨屋を見つけた。二日前の豆腐を売っている。ビールを買うにはここから反対側に20kmほど行かないと無いということだったのであきらめた。
ご飯が出来てふと腕をみると真っ赤な点がいっぱい着いていた。かゆみは無いのでブヨのしわざである。海岸沿の林の中は危険がいっぱいだ。テントの中で食事をした。なにやら、表がにぎやかなので、出てみるとねぶたが通って行く。小さなものだったが、初めて見るそれは、夕闇の中でぼんやりと明るく、幻想的だった。こんなことがあるから旅はやめられない。
第5日目
だいたいまともな地図など持っていないので、ここがどこかもわからない。テントをたたんで、出発したら程なく街に入った。なんだむつ市のすぐ近くだったんだと今ごろ気がついた。むつ市を抜けて、ひどくさびれたドライブ・インが在り朝食を食べることにした。あまりきれいなところだと、汚い格好で入るには気が引けるのである。新聞が置いてあった。一面に飛行機事故の写真が載っていた。十三湖のほとりでラジオが言っていた、旅客機の行方不明というのはこのことだったのだ。御巣鷹山の日航機遭難事故である。何も知らずに走っていたのでよけいショックだった。記事を全部読んだ。こんな事故でも助かった人がいたのだ。
それから一気に走る。盛岡までは無理だろうから十和田湖に行くことにした。どうも大きな道路を走るのは苦手で七戸町から右に折れ八甲田山に向かう。
道は交通量も無く快適でどんどん登ってゆく。
森の中にぽつんとひとつ温泉旅館があった。蔦温泉と書いてある。タオルを持って言って入浴した。たしか170円ぐらいだった。十三湊の旅館の風呂以来である。地元のおじいさんと話をしながらのんびりした。湯から出て水道で冷やしたリンゴを一個食べた。うまかった。
そこから先はひどい渋滞だった。奥入瀬渓流沿いにずっと車が連なっている。バイクも多い。中にはオーバー・ヒートで休んでいるライダーもいた。空冷エンジンはこういう渋滞は苦手である。ちょっとずるしてひょいひょいと走ってしまった。
十和田湖に着いたときはもう日が暮れかかっていた。ようやくキャンプ・サイトを見つけてテントを張ったが、なんとヘッドランプの電池が無い。(ヘッドランプとは文字どおり額に取り付けるランプのこと。キャンプの必需品。)これでは身動きとれないので、いそいで食事を済ませ、休屋まで買いに走った。ここ十和田湖のキャンプ場は夏とは言えとても気温が低く蚊もいない。昨夜のような虫に悩まされることはまったく無かった。
第6日目
朝霧の中、発荷峠を越え十和田湖を後にして秋田県へ出た。夏の高原には朝霧がよく似合う。寒いくらいだ。
途中で盛岡市にいる会社の同僚の佐々木氏に電話して、予定の確認をした。これからいっしょに早池峰山に登るのだ。荷物を用意して待っているとの事。東北自動車道が走っている真下を国道262号線で一気に盛岡まで走った。
町の中に入るととたんに道がわからなくなってしまうものだが、なんとか佐々木氏のマンションにたどり着いた。ここにバイクを置いて、必要な荷物だけを持って駅前に向かった。バイク・ツーリングの装備はほとんど登山と変わり無く、僕の場合はなにしろいつも軽登山靴を使っているので、そのまま山に登ることが出来る。このときは4人用テントを使っていたので、二人だとちょうど良い。
レンタカーはまったく空きが無く一台だけトラックがあった。山に行くのにトラックで不便なわけはなく、いざとなったら荷台で寝ることもできるということで、これで出発。2時間ほど走って登り口に着いた。
一時間ほど登ったところの岩場をベース・キャンプにすることにした。水がちょろちょろと岩の間から流れ出ているので都合が良い。ご飯を炊いてレトルト・カレーをあっためるだけの簡単な食事でも、山の中だとうまい。
第7日目
早池峰山は盛岡から南東の北上山地の真ん中にある標高1917mの山である。夜が明けるとやはり霧が出ている。ご飯を炊いておにぎりをつくって、ディパックだけで出発。いきなりの岩上りである。
ほとんどまっすぐ登るようなもので、山頂はまったく見えない。岩だらけの山だ。一番険しいところには鉄のクサリがあってそれを伝ってよじ登る。
頂上に着いたら、眼下は一面の霧でよく見えない。頂上付近だけは日が照っている。よく見るといろんなルートがあるようで、なだらかな道を登ってくる団体がいる。しばらく付近を散歩して、おにぎりを食べて、また引き返す。
下りはかえって恐い。崖をまっさかさまに落ちるようなものである。ようやくベース・キャンプにたどり着いて一服。そう、このころはまだタバコを喫っていたのだ。ところが、レンタカーを返す時刻が迫っている。あわててテントをたたみ、トラックのところまで降りて、また盛岡へと引き返した。ほとんどぴったり24時間で戻ったことになる。
しばらく佐々木氏宅で休憩して、こんどは一路、瀬峰の実家へと走った。このころはエネルギーが余っていて、どんな無理も出来たものだ。夜になって瀬峰に着いた。
翌日、瀬峰を出発。午後仙台に到着。
おわりに
この年の秋に、それまで働いていた会社を退社するのだった。それまでどんどん縮小して人員の整理をしていたが、いよいよ自分の番となり、自分から退社することにした。まあなんとかなるだろうという、ほとんどツーリングのように気楽に考えてのことだった。まったく、それまでも、そしてそれからも、僕の半生はほとんど一人であても無いバイク・ツーリングをしているようなものだった。たぶんこれからもそうなのだろう。
1998年1月25日記