ツーリング・リポート第一弾 能登半島ツーリングの巻

1977年8月

CB450と千枚田にて

はじめに

大学5年生の夏、千葉県の教員試験を受けた翌日、豪雨の中バイクを駆って400km離れた実家に帰り、そのまた翌日早起きして50km離れた仙台市まで宮城県の教員試験を受験の為バイクを飛ばすという強行軍で、さすがの若い体もくたくたに疲れてしまった。この為か宮城県の方はみごとに失敗。(それは後にわかったこと)降り続いた雨がやみ、CB450の整備も済んでいよいよ能登半島ツーリングへの旅立ちとなった。

コース

  1. 宮城県栗原郡瀬峰町の生家を出発
  2. 福島県会津郡河東村の大竹一弥の家に一泊
  3. 新潟県上越市高田の田中和男の家に一泊
  4. 富山県富山市の牛島亮一の家に一泊
  5. 能登半島黒崎キャンプ場一泊
  6. 再び富山県富山市の牛島亮一の家に一泊
  7. 松本市の民宿に一泊
  8. 千葉県野田市山崎のみどり荘にもどる

第1日目

着替えとキャンプ用品、バイク整備工具を積み込んで重装備となったCB450にまたがりいざ会津の大竹家に出発。夏の早朝とはいえ宮城県の北部瀬峰のあたりは山瀬の影響で霧につつまれかなり寒い。国道4号線に入り静かに流れに乗っていると突然頭上で轟音!農薬散布のヘリコプターが超低空で横切って行った。数年前までは夏に帰省すると共同作業の農薬散布で一日中田んぼの中を歩きまわったものだったが、どんどん農業従事者が減って来ており、ヘリコプターによる空中散布もかなり一般的になって来つつあるようだ。

仙台バイパスを抜けそのまま4号線を南下する。いつもは6号線に入り水戸方面に出てみどり荘にもどるのだが、今回初めて福島市へと進む。福島市で右折して土湯峠を超える。CB450は登りは得意ではない。トルクが無いのだ。直進性はいいのだが寝かし込みがきつい。猪苗代に下ってくると、気圧の変化で耳が聞こえなくなりエンジン音が静かになったような錯覚を覚える。これは実に快感なのだ。バイク乗りにはわかるだろう。

猪苗代町で右折しようとしてウインカーが点滅しないのに気づいた。脇に停めて様子をみると、後ろに付けたサイドバッグの右側が点灯しない。荷物を降ろして点検したらアースが緩んでいた。昨年の大晦日に上野のバイク・パーツ店で買って路上で取り付けた物だった。国産初のDOHCエンジンは振動が有りすぎる。締め付けてすぐ復旧した。

大竹の家に着いて休息。

第2日目

河東村から会津坂下への近道を教えてもらい、大竹のおふくろさんがつくってくれたおにぎりを持って出発。只見川沿いに走る。

田子倉ダムのあたりは先日の豪雨の影響がまだ残っていって道路が完全に泥沼になっていた。タイヤがめり込んでまともに走れない。泥の中を泳いでいるような感覚である。途中の河原でおにぎりを食べた。

新潟県との境の六十里越峠の頂点は真っ暗なトンネルだった。照明も何もなく、さらに峠の頂点だから山形になっていて出口の明かりさえも見えない、一寸先さえも見えない。これは恐怖である。ようやく抜け出したときは心からほっとした。どんどん下る。寒いので上着を着る。国道とは言ってもまだ舗装されていない部分が残っていた時代である。急コーナーは命懸けだ。

上越市高田城で田中和男と落ち合う。この辺は雪の多いところでどの家も屋根に登るはしごが付いている。さっそく登って写真を撮った。

第3日目

上越市高田から直江津で国道8号線に出る。日本海だ。波が荒い。親不知子不知海岸では道路まで波が打ち上げてくる。その水飛沫を浴びながら走る。恐い。

富山市の牛島亮一の家に泊まった。

第4日目

高岡、氷見をぬけていよいよ石川県へ、すでに能登半島である。峠をぬけて七尾に下るとどうしても石川さゆりの『能登半島』を口ずさんでしまう。一年前に友人達二人と夜行列車で着いたのがこの七尾市だった。ここからバスツアーで輪島市まで一日かけて行った。今日は一人だ。一人で長いバイク旅行をするのは実は今回が初めてである。さらに今日はどこに泊まるかさえ決めていない。野宿の為にツェルトと寝袋は持ってきているがバイク旅行で使うのは初めてである。

ぐるっと周って外海の側に出ると曇ってきた。風も冷たくなり不安感が増す。千枚田で写真を撮った。輪島で箸を買った。

一年前の旅行では輪島の駅前の民宿に泊まったが、そこも過ぎるともう夕方である。さていよいよねぐらを捜さなくては!キャンプ場の印はないか、ちょうどいい場所はないか、走る事よりもそんなことばかり考えてたらまた海に出た。寂れた感じの漁村は夕日を浴びてもの哀しい。

黒崎というところでキャンプ場があった。夕食を食べたら他にバイクライダーが二人いて、3人でふもとの漁村の夏祭を見に行く事にした。駐在所の前にバイクをおかせてもらい、徒歩で街を行くと、どの家も玄関に大きな提灯が灯り通りには浴衣の人々があふれていた。その中をいくつもの山車が通っていく。中には女ばかりの神輿もあった。夏の夜の提灯の灯かりの中を恍惚として山車や神輿が進んで行く。幻想的で官能的な眺めだ。この祭りは今もあるのだろうか?果たしてあの祭りは現実のものだったのか?あの街はなんというところだったのだろう?

第5日目

能登金剛を見物して福浦という漁村に差し掛かった。あっという間に通過してしまうこの街も、古くは北前船で大変なにぎわいのある港町であったそうだ。現在のように陸上の交通が発達する以前は海上交通それも日本海側の方が盛んであった。奈良時代から渤海との交流基点としても栄えた格好の風待ち避難港であり、なんと日本最初の灯台が慶長13年に設置されている。

日本海の旅ではこのような場所によく差し掛かるのだが、そんなことが解るようになったのは後々の事、その時はただ走る事で精一杯だった。

羽咋市の市長宅でスイカをごちそうになった。

金沢市から高速道路で富山市までもどった。途中雨が降ってきて顔に刺さって痛かった。CB450はスピードを出すと振動でグリップを握る手が浮いてしまう。

第6日目

朝から雨、一日中降っていた。合羽を来て出発一路飛騨高山へと向かう。山並みは雨で煙っている。昨日の羽咋辺りの晴天がうそのようだ。高山に着いても止まない。道を間違えてすこし戻って158号線に出て安房峠に登る。途中はまたまた泥沼状態。田んぼの中をトラクタで走ってるようだ。雨の中で牛島のおふくろさんがつくってくれたおにぎりを食べた。その横を乗用車が連なって行く。みんな夏服だ。こっちは寒くて震えている。

松本まで降りても雨は止まない、もう夕方で暗くなって来た、交番で教えてもらって民宿に泊まった。ずぶ濡れの合羽で飛び込んだら「相部屋になりますけどいいですか?」とのこと、でもだれも来なかった。一泊夕食朝食付きで2000円だった。

第7日目

朝は晴れていたが、上田に出て小諸を通り碓氷峠でまた雨が降ってきた。ガソリン・スタンドでストーブにあたって暖をとった。まだ8月なのに灯油ストーブが焚いてあった。寒い寒い。

今日はまっすぐに千葉県野田市山崎のみどり荘に帰る。東京理科大の門のすぐ前にある理科大生だけ45人もいるアパートである。ここで僕は青春時代5年間を過ごした。このリポートに登場した個人名はみなここの住人である。

その後小降りになったり、また降り出したりの中走り続け夕方ようやくみどり荘にたどり着いた。初めてのロング・ツーリングはこうして無事終わった。CB450は泥だらけである。翌日きれいに洗って今度は裏磐梯にまた旅立ったのだった。

登場人物紹介

大竹一弥 同じ物理学科で2歳年上。理系のみならず文学哲学に通じ、中でも映画にはめっぽう詳しかった。朝が早く、いつも机に向かっていた。
田中和男 機械科で同い年。年中実験用の作業服を着ていた。このころはカラオケなんか無かったが、無伴奏で歌う井上陽水は秀逸。
牛島亮一 物理学科で同じ研究室。二人で組んで実験をしていた。僕は細かい作業や暗室での現像が好きで、彼は文献解読が得意な理論派だった。クラシック音楽が好きでオーディオマニアだった。

おわりに

とりあえず最初のツーリング・リポートを早く書き上げようと2日で書き上げた。今気づいたが、これはちょうど20年前のことだった。こまかい事柄は忘却の彼方に去ってしまい、残っている写真集だけがわずかな手がかりだった。

バイク・ソロ・ツーリングはこの後何度も体験している。この一週間の旅がその始まりだった。初めての事なので不安感ばかりの毎日だった。その後の僕の生き方もソロ・ツーリングそのもののような気がする。

1997年10月25日記