北海道の巻(9)

1986年8月

第10日

雨が降っていた。大場君は仕事である。僕は奥さんの京子さんと車で知床半島あたりを廻ってくることにした。まずは斜里へと向かう。途中、つい最近まで使っていた養豚場の前を通った。豚肉の価格が下落して事業にならずに廃業したのだった。同じような光景が北海道中随所に見られた。大場君も苦労したんだなぁ。

女満別空港に寄ってみた。ここも北海道のローカル空港らしく周りには何も無い広い場所に滑走路が一本延びているだけである。

斜里に入って海岸に出たところで、道端で手を振っている若者がいる。大きなリュックを担いでるからヒッチ・ハイカーだ。どうせ急ぐ旅でもないし、面白そうだから、停めて乗せてやった。

確か早稲田の冒険部とか言っていたが、今となっては記憶が定かではない。もちろん名前も顔もすっかり忘れてしまったが、真面目な学生であった。乗せてやるから、何か歌え!とかいろいろからかったりしているうちに、知床半島に入って行った。雨は小雨から霧雨状態になって来たが、どんどん車が増えてきて、ついにほとんど動かない渋滞になってしまった。こんなに車が連なっていては、秘境知床というイメージはまったく無い。

滝のように温泉が流れているところにやってきて車を停めた。この上に温泉の滝壷があり、入浴できるそうだ。京子さんは水着を持参してるし、男はタオル一枚でなんとかなるだろうと、そろって滝を登って行った。また雨が降ってきた。いけない、傘を持って来なかった。頭は雨で冷たいけど、足元は温泉の湯であたたかい。岩肌は硫黄のせいであろう、ちょっとぬるぬるして滑りそうだ。かなり登ったが、まだ着かない。かなりたくさんの人が一緒に登ってるし、同じくらいの人が上から降りてくる。これじゃ、上に行っても入浴どころじゃないだろう。雨も一向に止む気配もないので、このへんで諦めて降りることにした。

ここから、運転を変わって僕がドライバーになった。とたんにギアを間違えて、フロントバンパーを崖に突っ込んでしまった。とんでもない運転手である。

知床横断道路に出るため、今来た道をもどっていると、なんとすぐ横にキタキツネが居た。渋滞の車の列をじっと眺めている。京子さんの話によると、観光客からエサをもらおうと、こんなに近くまで出てくるのだそうだ。これから秋にかけてたくさん食べてまるまる太って冬を迎える準備をしなくてはならないのだ。はじめて知床の野生に触れたが、なんだか観光なれしているその姿には野生動物の気高さとか気品は感じられなかった。ちゃっかりしてるということか。

知床横断道路は霧の中である。前がまったく見えない。もちろん横も後ろも。ここがどこやらさっぱりわからない。そんな中をこうして出会った3人で走っているのだ、なんだかすべて霧の中の幻想のようだ。頂上で停めて、車の外に出てみた。寒い!ぶるぶる震えるくらいだ。

羅臼町に降りて行く。港の防波堤まで行ってみる。目の前に、本当にすぐ目の前に、大きな島が見える。国後島である。あっけにとられた!こんなに近いなんて知らなかった。間に挟まっている根室海峡なんて川のようなもので、まるで向こう岸のような所が国後島である。驚きのあまり、しばし呆然とたたずむだけであった。

昭和20年8月18日、ソ連軍は終戦後のどさくさに紛れ千島列島に武力進攻を開始した。いわゆる「北方領土」は旧ソ連、現在はロシアに引き継がれ不当に占拠された状態のままである。

羅臼の町は知床半島の岸壁にへばりつくように細長く続いている。適当な高さの見晴らしの良い場所を探し、ようやく見つけた高原で国後島を眺めながら休憩した。

そこから先は霧の中だった。標津町まではどこをどう走っているものやら、まったくわからない状態の灰色の霧の中の走行だった。ふと気が付くと左側は絶壁で、気を抜くと海に落ちそうで恐かった。

中標津あたりの平野には大きなパイロット牧場が連なっている。ようやく見晴らしが良くなってきて、濃い緑が広がっている。道はどこまでもまっすぐで、距離感、スピード感がまひするような感覚だ。信号も何も無い。

弟子屈町からまた、摩周湖に登ってみる。途中の牧場でしぼりたての濃い牛乳を飲んだ。こんなにうまい牛乳ははじめて飲んだ。

摩周湖はまたもや霧の中である。しかも夕暮れ時で・・・あれ?

すっと、いう感じで薄い幕が開いたように、静かに摩周湖の全景が目の前に広がった。そうかこんな風に見えるのか?なんだか、さっきまで目隠しをされていたような、不思議な気分だった。

そこから、前日とは逆の進路で屈斜路湖、美幌峠を越え美幌へと帰り着き、美幌駅でヒッチハイカーの学生を降ろし、大場君を拾いに書店まで戻ったら、夜の7時になっていた。その夜も大場君の家で大いに語り飲んだ。

1998年12月21日記

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