栗駒登山

宮城県、岩手県、そして秋田県が一点で重なるところにそびえる標高1626mの活火山、それが栗駒山です。

この山に5回登りました。

高校一年生の夏が最初でした。次はバイクツーリングの途中でふと思い立ってひとりで登りました。三回目は小学校中学校高校の同級生の山下君と二人で登りました。次は仙台で働いていた同僚たちと登りました。最後は父と母を連れて登りました。

これから先はもう登ることはありませんから、ここに栗駒登山の思い出を書きます。

第一回登山 蛍峰会 1970年夏

瀬峰中学校から宮城県古川高等学校と宮城県古川女子高等学校へ進学した者達で構成される蛍峰会(けいほうかい)がありました。一年生から三年生までの両校の生徒で構成されていました。

僕と山下君の二人は自動的にこの会員と成りました。古川高校は瀬峰中学校からは学区外でした。僕の時代は学区変更願を出して受験が認められていましたが、後に学区規制が厳しくなり瀬峰中学校からは進学できなくなり、僕の二年下の時代でこの会は途切れてしまいました。

現在は古川高校は男女共学となり、古川女子校は廃校になっています。

その蛍峰会に入った高校一年生の夏、栗駒登山をすることになりました。現在ではクルマで途中まで行き、日帰りで登って帰れますが、その頃はそんな時代ではありませんでした。

顧問として古川女子校の先生に引率してもらいました。その先生は古川高校の先輩でした。

瀬峰駅から東北本線に乗り、石越駅で降りて、現在では廃線となっている栗原電鉄という電気鉄道に乗り換えました。この電気鉄道はその先の細倉鉱山の鉱物移送の為に作られてものでした。

記憶によると、細倉駅で降りてバスに乗り換え、終点の駒の湯温泉まで行きました。その温泉宿のバンガローに男女別々に泊まったのです。

翌朝は早起きして、沢伝いに登って行きました。これは石飛八里(いしとびはちり)と言うコースでした。途中で女子校三年生の先輩が転んでリュックから荷物が川に流されるという事故があったのが記憶に残っています。

沢を抜けてから万年雪の雪渓がありました。現在ではなくなっているのですが、この雪渓の雪に粉ミルクをまぜて飲んだものでした。深いクレバスもあって、のぞき込んだら怖かったものです。

いよいよ山頂。山頂付近山肌に這いつくばって登るくらい急でしたから、苦労して登ったかいがありました。

山を降りてバンガローに帰り、駒の湯温泉に入りました。疲れて体に温泉が染みました。硫黄の花が湯の中に浮いているのが印象的でした。 その駒の湯温泉ですが、2008年の岩手・宮城内陸地震で土砂に飲み込まれ完全に埋まってしまいました。従業員宿泊客7人が犠牲となりました。

第二回登山 単独行 1984年頃

30歳の頃でしたが、その頃は仙台に済んでいました。仕事ではクルマに乗ることが多かったのですが、休日は250ccのオフロードバイクに乗っていました。このバイクで栗駒の裏側(岩手県側)の須川温泉まで登って行き休憩したところ、ここから栗駒山に登ってみようと思い立ちました。靴は登山用ではなかったのですが、オフロードバイク用でしたから、大丈夫だろうと軽く考えたのです。

昇りは見晴らしのいい道で、たくさんの登山客が歩いていたので困ることはありませんでした。途中の噴火口は火口湖になっていて青緑色の湖面はちょっと

不気味に感じました。魚も植物も生命がまったく感じられなかったのです。

第一回目の石飛八里コースとは違って、とても楽なコースでした。山頂付近も尾根を散歩する感じで気分爽快でしった。

下りは別のコースを選んだのですが、これがなかなかのコースで、誰も歩いていなくて、途中の分岐点ではあやうく迷うところでした。

第三回登山 山下君と二人 1985年頃

それから間もなく、須川温泉側からの栗駒登山の話を山下君にしたところ、急遽二人で登ることになりました。

山下君は僕と二人だけ瀬峰中学校から古川高校に進学した友人で、一年浪人して山形大学に入り、金沢大学の大学院に進み、山形の製薬会社に入った後、また山形大学に戻り教職単位を取って、瀬峰の実家にもどり教員試験の勉強をしているところでした。

栗駒登山の後は宮城県の中学校の教員となりました。小学校の頃からたくさん遊んでたくさん学んでたくさん飲んだ友人でしたが、これが最後の思い出となりました。

第四回登山 職場仲間と 1985年頃

仙台で仕事をしていた頃、職場仲間男女五人で登りました。僕のクルマで仙台から東北自動車道で一関ICまで走り、そこから須川温泉まで登って行き、駐車場から一列になって歩きました。途中の沢にスイカを冷やしておいて、帰りに冷えたスイカを食べたのが一番の思い出です。

第五回登山 父と母と 1986年頃

10月10日は体育の日。今では毎年違っていますが、以前は10月10日と決まっていました。この日は気象特異日で腫れの確率が断然高かったのです。もちろん、高校一年生の時の第一回栗駒登山の後の10月10日も晴天で、その日が第一回東京オリンピックでした。

その体育の日に、父と母を連れて栗駒登山をしました。僕が仙台にいた頃ですから、まだ昭和時代です。紅葉が綺麗でした。その頃にはいわかがみ平まで舗装道路が整備されており、終点には広い駐車場がありました。そこから登り始めたのです。森林限界を超すと急に冷えてきて、山頂には雪が積もっていました。眼科には雲海が広がっていて、景色を楽しむどころではありません。体育の日なのでたくさんの登山客が居て、寒さに震えながらもグループ毎に食事をしていました。その雲の中から爆音が響き渡りました。雲の中でまったく見えませんでしたが、突如、目の前にヘリコプターが現れました。下から雲を突き破って姿を現したのでした。体育の日のTV曲の取材ヘリのようで、カメラで撮影していました。もしかしたら、僕たち家族も夕方のTVで放映されたのかもしれません。

この登山は、父と母とのいい思い出となりました。仙台にいた頃は休みになると実家に帰り三人で農作業をしていましたが、やはり栗駒登山が一番の思い出です。

2025年11月9日 記