3.加護坊山旅行 (かごぼうやま 旅行)
小学生の思い出のひとつに部落旅行があります。学校の旅行とは別に部落子供会で行く旅行です。小学校の子供会の他に、町内の部落にはそれぞれ部落子供会がありました。泉谷部落子供会では一年生から六年生まで約六十人程が数班に分れて勉強会や学芸会などをやっていました。そして夏休みの一日、部落のはずれの四ツ壇原のバス停留所に集まり、小学生児童と親がバス旅行をしたのです。その第一回目が加護坊山旅行でした。
この第一回目、実はバス旅行ではありません。まだバスを貸し切りで雇う経済的余裕はありませんでしたし、そういう経験もノウハウもなかったからです。それでも部落の子供たちの為にと、親たちは知恵を絞り考えたのが耕耘機を出し合っての旅行です。
泉谷部落はほぼ全戸が農家です。そのころまだまだ牛を農耕用に使ってはいましたが、耕耘機を使いはじめた農家もありました。そういう家から耕耘機を五六台出して、それぞれ十五人ぐらいづつ乗って行ったのです。
現代から見ると当然のような疑問が生じますね。そうです、どうしてクルマで行かなかったのかと。そのころはまだまだクルマを持っている家はなかったからです。だいだいクルマという言葉はありませんでした。くるま屋というと農耕用の馬車を作ってるところをさしていたくらいですから。しかもその馬車は馬ではなく牛が牽くものでした。自動車というものは見たことがありましたが、乗ったことがあるのはバスとタクシーだけで、自家用車なんてテレビの中の話でしかありませんでした。そのテレビでさえまだ持っている家は少なかったのです。
さて耕耘機に乗るというのは、実は正確な表現ではありません。耕耘機そのものには乗ることができませんから。現代ならばトラクターという四輪の耕作機械がありますが、耕耘機と言っていたものは二輪なんです。耕耘機は発動機の動力を左右の駆動輪に伝えて自走する他、田や畑の土を掘り起こしたりかき混ぜたりする刃の付いた装置を駆動して回転させることができます。そういう装置は交換して目的に合う装置を取り付けることが出来る構造になってます。それらには一番後ろの両側に転輪がついていて、これを利用するとやっと四輪になり安定走行ができるというしかけになってます。
その耕耘機の後ろにトレーラーという荷車を取り付けて、家から田圃や畑に肥料やたい肥を運んだり、田圃からは稲を、畑からはかぼちゃを運んだりします。そのトレーラーに乗るのです。実はこれは交通違反です。しかも一台に十数人も乗るなんて、現代ではパトカーが飛んでくるような交通違反です。その耕耘機のスピードたるや、まだ舗装されていないでこぼこ道では歩く程度の速さしかでませんから、駐在さんは自転車に乗らなくても走って捕まえることができるくらいです。でも駐在さんの居る駐在所はずっとずっと遠い鉄道の駅前なので誰もそんなことなど気にしません。僕なんか駐在所がどこにあるかも知りませんでした。
夏休みのよく晴れた朝、一行はタバコ屋の前の三叉路になっている広い道路に集まりました。僕たち子供は両親と一緒に出かけるのがうれしくてたまりません。親たちも初めての体験に興奮ぎみです。誰がどのトレーラーに乗るか、しばしわいわいやったあと、さあ出発です。運転手達は発動機の弾み車に専用のひもをぐるぐるっと回し、デコンプ・レバーを引いて圧縮を抜きピストンを上死点に合わせておいて、思いっきりひもを引きます。はじめはダッダッダッダ、すぐにダダダダダダダダと発動機は働き始めます。現代ではセルフスターターという機構がモーターを回して自動的に行うことを全部手動で行ってたんです。僕も小学校高学年になると出来るようになりました。
道はでこぼこで、トレーラーの轍がはっきりと刻まれてます。トレーラーにはふかふかの座席なんてものはありません。鉄のフレームの上に木の板で荷物が落ちないようにしているだけのただの箱のようなものですから、おしりがいたいのですが、がまんがまん。そんなことは気にもしません。見慣れた田圃道を進み、やがて隣町の境を超えるころには、旅行気分が出てきて、ゆっくりと走り去る景色をのんびり眺めながら、ダダダダと発動機の音を聞きながら楽しい気分一杯です。
南西隣の田尻町大貫部落に入ってしばらくすると、いよいよ加護坊山の登りにさしかかります。さあてこうなるとさすがの発動機も馬力が足りません。当時の耕耘機の発動機は八馬力もあれば高出力でした。みんなで降りて押しながら登ります。これもまた笑いながらで楽しい。なんだか農作業の続きのような気もしますが、知らない土地で仲間と一緒に、わっしょいわっしょいと声を掛け合って力を出すのだから、なんだかおかしいくらいに気分は高揚して来るのでした。山の北側の林の中ということもあり、夏とはいえそんなに暑くはなくて、汗もあまりかかないくらいでした。
最後の急な坂を登り切ると、急に景色は開け、あたりは一面の牧草地となっていて、開放感一杯です。加護坊山の頂上の丘がふたつなだらかに見えています。右側すなわち西側が少し高いので頂上となります。この辺で耕耘機を止めて、トレーラーからめいめいの荷物を下ろし、最後は歩いて登ります。とは言っても子供たちですから、わぁっと一斉に走り回りはしゃぎ回ることに夢中です。
なんとか頂上の広場にたどり着きまして、ひと休み。距離も時間も現在のようなバス旅行のようなものではないのですが、なにしろがたごと揺れたり、坂道を押したりでかなり疲れましたから、母親の作ってくれた特製弁当を食べるのはありがたく、うれしいものです。なんと言っても家族そろってこんな見晴らしのいい山の頂上で食べるのは楽しくてたまりません。
午後は、みんなでゲームをしました。助け鬼とかいろんなゲームをしたと思うのですが、覚えているのは宝探しです。大人たちがトマトを草むらに隠して置き、それを子供たちが見つけるというだけの単純なものですが、とっても楽しかった。僕はなかなか見つけられなくて泣きそうに立ってたら、母が目配せをしてくれて、やっと見つけたときはほっとしたのだけど、なんだかずるいことをしたみたいで、後ろめたかったものでした。
ダンボール紙を橇にして斜面をすべったり、泉谷では経験の出来ない、沢ガニ捕りなどして、ひとしきり遊んだ後は、また同じように耕耘機のトレーラーに乗って帰りました。列を作って何台も進む奇妙な車列と乗ってる我々を沿道の人たちは不思議そうに眺めていましたっけ。
出発したときと同じタバコ屋の前で解散しましたが、父親たちはまっすぐ帰らずに、これから寄り合いだとか言って居残りました。どうせまた飲むんだろうとわかっていたので、父にねだってプラモデルを買ってもらいました。たしかロボット三等兵だったと記憶してます。
僕の小学校低学年時代はまだこんなことを素朴に楽しむことのできる時代でした。それからまもなく高度成長の勢いは僕の田舎にも押し寄せて来たので、翌年からはバスを借り切っての海水浴が部落旅行の定番となりました。
その後、中学生になって自転車で登り、高校生の時にはオートバイで登り、そして大人になってからは乗用車で母を乗せて登りました。でも、あんなことはもう二度と出来ないんだなと、懐かしく思い出します。
2004年5月16日記