牛との思い出
高校を卒業して家を離れるまで豚肉や牛肉を食べたことはありませんでした。なにしろ、カレーライスにはちくわが入っていたくらいです。鶏肉はハレの日の料理としての茶碗蒸しに入っていました。鶏小屋で買っていて、昼の間は庭を歩き回っていた鶏たちのうち、弱っているのを選んで食べていたのです。弟はその現場を観てしまってからは、鶏を食べることが出来なかったくらいです。
鶏はたくさんいましたよ。「うらにわにはにはにわにはにはにわとりがいる」とはよく言いますが、その何倍も居ました。卵は鶏小屋の中に入っていって、そっとわけてもらっていました。
豚肉や牛肉を食べないというのは、祖母の教育のせいで、四つ足を食べると四つ足になるという古い考え方のようでした。
そもそも、牛は子供の頃から飼っていたので、家族の一員のようなものでした。現在で言えば猫や犬と同じようなもので、もちろん名前もありました。
ここでは、その牛との思い出を書いてみます。前回の猫の話よりも前のことです。

牛と代かき
小学校の中学年になると牛と一緒に田んぼの代かきをしました。父が後で牛に引かせた農具を持ち、僕が牛の鼻緒を引いて田んぼの中で進む道を制御するのですが、実は牛の方がちゃんとわきまえていて、僕が特に何もしなくても、自分で歩き回ります。途中で停めるときには「どうどう!」と言うだけで停まります。
休憩するときにはあぜ道にあがってたばこ(おやつ)を食べますが、牛にもちゃんと分けてあげます。一緒に働いているという家族の一員という意識があるようで、いつも優しい目で見てくれます。
帰りは馬車(牛が引くのに馬車と言ってました。)を引いてくれます。その馬車に家族も乗るのですが、牛はちゃんと道を知っているので、自分でゆっくりと進んでいきます。父は、途中の河原で汚れた体を洗ってあげます。牛はとても気持ちよさそうにしています。
耕耘機やトラクタの時代になる前ののんびりした時代でした。
牛の世話
小学校の頃は風呂係でした。低学年の頃は外にあった風呂場が母屋に隣接して、石油釜に変わってからは、薪割りをしなくてもよくなったので炊くのだけは楽になりました。
まず、井戸からバケツに水を汲んで両手に提げて運びます。これが何回も続くので重労働でした。以前の風呂場は井戸の隣だったのに、母屋に隣接して遠くなったのです。
その、井戸ですが、最初は滑車を使ってくみ上げていたのが、手動ポンプ式になり、ついには電気ポンプになって、そのまま台所や風呂場につながってからは水汲み仕事がなくなったので、石油釜に火を付けるだけの簡単な物になりました。
2011年の東北大震災で水道も電気も止まったとき、捨てずに保存していた滑車を使って井戸水を汲んで、自宅用はもちろん近所・近在の人たちに汲んであげていました。滑車の先に付けたバケツで井戸水を汲むのは慣れていないと案外難しい物なんです。
水があれば飲み水はもちろん、竈を使っての煮炊きや風呂にも使えるので、子供の頃の電気のない生活を経験していた者達にとっては、特に困りもしないことでした。
中学校になったら、風呂係は弟に引き継がれ、僕は牛の世話係に昇格しました。牛とは生まれたときから一緒に育ってきた仲なので言葉が通じていました。なにしろ父に叱られたときには牛小屋に行って牛に抱きついて泣いていたくらいですから。
朝起きると、最初に井戸で水を汲んで牛小屋に運びます。名前を呼ぶと奥のわらの中で寝ていた牛は、ゆっくりと起きて挨拶に出て来ます。顔を拭いてあげて、目やにを撮ってあげます。
さらに押し切りでわらを刻んだり、南瓜や草を刻んだりして朝食を作ります。最後にさくずというふりかけを掛けるのですが、これは精米で出た米ぬかで、とても栄養のある物です。
ここ数年は玄米を食べています。精米する前の米です。つまり、さくずの着いた米です。牛と同じ物を食べている訳です。
朝食を作っている間には、「回ってきて!」と言うと、牛小屋の中を走ってひとまわりします。「もう一回!」といいながら、何度も走らせるのですが、ちゃんと言葉を理解してくれます。
学校から帰ってきたら、まず牛小屋に行き挨拶して、また食事を作ります。自分のことよりも牛の世話を第一に考えていました。

2025年6月8日 記