年末年始の思い出

子供の頃、年末年始はいつもわくわくしてました。中には苦労することもありましたが、全体的には楽しい思い出ばかりでした。もう60年も前のことですが、思い出してみます。

餅つき

特に年末の餅は自宅で食べる分だけではなく、東京地方にいる母の弟妹達親戚に送るために一度に三臼の餅つきをしたものです。

幼い頃はもちろん父がつき手、母が返し手をしていたのですが、父はつくよりも、食べる方が好きなので、その時間になるとふらりと姿を消してしまうというくせがあり、母には、「居なくならないように見張っておけよ」と言われていました。

小学校5年生か6年生の頃、竈の大きな釜で蒸し上がった餅米を臼に移して、さあ一度目の準備完了。母に父を呼んでくるように言われて、母屋の裏にある木小屋に行ってみたところ、父は消えていました。木小屋で作業をしているとだまされた責任を取るために、僕が三回も付くことになりました。

小学校高学年の頃には体が今とほとんど同じくらい大きかったものの、さずがに三臼も付くと体中の筋肉が悲鳴をあげてしまいました。杵を振り上げるときはもちろん、振り下ろすときも、正確に狙った点に当てるためには、筋力を使うわけです。、とうとう、最後には座敷の畳の上にバタンと倒れてしまい、もう食べる気力も無くなってしまいました。筋肉が乳酸でぱんぱんに張っていたのです。祖母が既に小豆を茹でてあんこを作っていたので、すぐにあんこ餅ができました。弟や妹は喜んで食べていましたが、僕は最後に少し食べたくらいでした。

ようやく姿を現した父は、「おっ、ついたのか」と喜んで食べていました。

いかに父があんこ餅好きだったかを物語るエピソードがあります。

晩年、県立病院に入院していたときのこと。母は医者に「もうこれ以上何も出来ないので、好きな物を食べさせて」と言われ、父に何を食べたいか訊いたところ、あんこ餅が食べたいとのこと。

その頃には電動の餅つき器があったので、翌日に持って行って食べさせたところ、もっともっとと催促され、あわてて引き返してどっさり運びました。それから毎日毎日あんこ餅をたべていたら、医者から「もうすっかり回復したので退院です」と告げられました。医者が匙を投げたのをあんこ餅が救ったのでした。

その息子の僕も月に数回小豆を炊いて粒あんを作って食べています。

注連縄

暮れには父が注連縄をたくさん作ります。屋敷中に飾るためです。それらを各場所に配るのは長男の僕の役目でした。母屋の玄関、台所、神棚、作業場、牛小屋、井戸、味噌小屋、便所、鶏小屋、木小屋、門口、等々、そして一番の難所は屋敷の北西の角にある御明神様。そこは竹藪の中を歩いた先にあり、滅多に行くことはなかったのですが、どうしても年末には行かなければなりません。そうでなくても、柔らかな土の上に厚く積もった笹の上にさらに厚く降り積もった雪をかき分けて歩くのは大変で、膝のところまで雪に埋まってしまいます。長靴を履いていてもまったく役に立たないのです。今ではその竹藪もなくなり、御明神様は塀の前にひっそりとたたずんでいます。

元朝参り

今は初詣といいますが、その頃は元朝参りと言っていました。元日の朝だから、元朝、元旦と同じ意味です。

まだ暗い内から提灯の灯りを先頭にして、一家六人そろって出かけます。そのころはまだ街灯というものはなく、夜には提灯を持って歩くのが当たり前でした。

提灯の思い出として記憶にしっかりと残っていることがあります。

小学校5年生の2月。放課後に急に居残りをさせられて、卒業生を送る会の企画委員会に参加することになりました。終わった頃にはもう真っ暗でした。小学校からの帰宅には一時間かかります。星明かりの中、田んぼ道を歩いているとき、真正面(南側)の夜空にオリオン座が輝いていたのを覚えています。ふと見ると向こうの土手の上で薄明かりが動いていました。近づいてゆくと「一郎か」と、母の声が。心配して迎えに来てくれたのでした。そのころはまだ電話などなかったので、さぞや心配だったことでしょう。

暗い夜道にぼんやりとともる提灯の灯り、懐かしい光景です。

最初に近所にある熊野様(熊野神社)に行きます。さらに、集落の東の端にある愛宕様(愛宕神社)まで歩き、ちょうど初日の出を拝むことになります。

帰宅すると、七輪で餅を焼き、飴と黄粉で食べます。これは正月だけに食べる料理でしたが、今では飴が入手できないので廃れてしまいました。残念です。

神棚にお膳を供えたり、さげたりするのも長男の役割で、すっかり冷めてしまったお膳を食べるというつらい試練もありました。

2026年1月3日 記