マイコン
電子計算機の時代
子どもの頃、テレビドラマなどにに出てくる電子計算機というのは、不思議な機械でした。悪い博士がなにやらボタンを押すと、ガチャガチャガチャ、チーンという音がして紙が出てくるのです。そこには何かの数字が書いてあるのですが、これが計算した答えなのです。とても大きな箱がたくさん並んでいる機械で計算するのだから、そろばんとはちがう、もっともっと難しい計算をしているのだろうなとは思いました。よく、その真似をして、算数の問題を解くときにはガチャガチャガチャ、チーンと言ってから答えたものです。
そのうち、なにやら怪しげな光がたくさん点滅して、丸いものがぐるぐる回る機械に変わって来ました。テレビのような画面で答えを表示するようになると、白衣を着た博士でなくても、それが解読できるようです。
高校の時にはすでにICの時代になっていましたが、よく真空管でパルス回路を作って遊んでました。これが記憶素子の基本となるフリップフロップ(双安定マルチバイブレータ)という回路です。
大学では物理学を専攻したのですが、数学科と一緒の「電子計算機実習」という実習授業がありました。授業料は自分でアルバイトをして払っていましたが、この実習費までは間に合わないので、選択はしませんでした。実習内容は、IBMの汎用機を使ったFORTRANのプログラミングでした。友人からその様子を話に聞いたり、出力した紙を見せられたりして、なんとなく難しい事をしてるんだなと思ってました。
マイコンの時代
このころ、NECからTK80というマイクロチップを使ったマイコン・キットが発売されました。当時の値段で電源キットも合わせると一年分の授業料を超してましたので、とても僕には買える状態ではありませんでした。
TK80に使われたCPUはZ80というもので、このアセンブリ言語を雑誌の記事などで自習しました。こんなの何の役に立つんだろうとは言いながらも、なんとなく魅力を感じていたのでした。
メモリーとCPUとの動作プロセスはとても論理的できちんとしていて、パズルのようで、とてもおもしろいものでした。紙の上での遊びに過ぎず、実物で実行させたことはありません。
パソコンの時代(黎明期)
社会人となって、多忙な時期が続き、そんなこともすっかり忘れていたのですが、ある時書店で雑誌を見つけました。TK80には画面などは無かったので、マイコンといえば、電子基板にCPUとメモリーぐらいがくっついたものという思い込みがありました。それを根底からくつがえすその雑誌の表紙の写真に驚いたのです。仕事中で乗用車で移動中の時でしたが、車の中で夢中になって読みました。それはTANDY80という米国製のパーソナル・コンピュータというものでした。キーボードとCRTとFDDがすべて一つになったもので、当時のコンピュータの端末機にそっくりでした。
仙台に転勤になりパソコン・ショップに行ってみて、学生達が展示されているパソコンを自由に楽しそうに操作しているのを見て、少なからずショックを受けた事が自分で買おうと決意したきっかけになりました。彼らが何をやってるのかがまったく理解できなかったからです。
最初に買ったパソコンは、いわゆるポケコンというものです。CASIO PB-100というものでしたが、ちゃんとパーソナル・コンピュータと銘が打って有りました。これでBASICを学びました。当時ある会社の宮城県の4つの支店の責任者をやってたので、このポケコンに経費管理の簡単なシステムをつくり移動中の車の中でも予算実績管理をしていました。これは、帳面でもやれない事は無いのですが、計算を瞬時にやってくれるのでとても便利でした。パソコンの威力を一番感じたのは、最初に作った金種計算を実行したときでした。事務担当の女子社員が200名分の現金払い給与の金種計算を手書きで行なっていました。普通まる一日、最後に合計を計算してどこかで間違いがあったとなると2日も掛かっていたのが、電卓のようにキーを打つだけであっという間に出来たのです。小さな液晶画面ではわかりにくいので、プリンタをつけたりして拡張しました。
次に買ったのは、タモリが宣伝していた富士通のFFM-7です。128,000円でした。CRTが80,000円ぐらいですから、全部で20万円ぐらいでした。これはかなり使い込みました。キーボード一体型という当時のはやりのスタイルでした。CPUはモトローラの6809で計算用と画像表示用と2つ入ってました。NEC等のパソコンと比較してカラー画像表示がとても早いものでした。会社に持ち込んで仕事用に使ってF-BASICというBASICでたくさんプログラムを書きました。さらに、カセット・テープでは物足りなくなって5インチのFDDを増設しました。これだけで、本体よりも高く15万円ぐらいしました。なんと5.25インチFDは10枚で15,000円もしたんですよ。
F-BASICでは物足りなくなって、OS-9という今では幻のOSに切り替えました。6809は内部16ビット外部8ビットのCPUでしたので、OS-9によってマルチタスク処理が出来ました。画面はCUIですから、見た目はさっぱりですが、きちんと別々にプログラムを同時に実行できました。すばらしい速度で、NEC8801と同じアルゴリズムで比較しても問題にならないほど速かったものです。
松下通信工業のMy-brain 3000という日本で最初のMS-DOSマシンを中古で手に入れたのですが、FM-7よりも遅くてぜんぜん使えませんでした。
次に、FM-11 AD2を買いました。この頃には今のようなデスクトップ型という形態が一般的になってきてました。業務での利用も本格的になり、仙台で全国の顧客を管理してましたので、それに応用していました。さらに当時はミニ・コンピュータ・クラスでしか事例がなかった『S−P表』のシステムを作り、製品開発にも応用するようになりました。当時の僕はまったくのマニア状態で、昼夜の区別、曜日感覚も無く、ふと気が付くとオフィスにはだれも居ない深夜だったり、休日なのに出勤してどうしてみんなは来ないんだろうと思ったり、寝過ごして遅刻は普通で、食事は不規則で、風呂にも入らず、というほとんど常人とは違う世界に居ました。
ある日、アパートに電話を引くため、早く帰りました。そのときリセット・キーを押したように、常人の世界に戻りました。それから、生活を変えるためにモーターサイクルを買いツーリングをするようになりました。
その会社を退社し、富士通のFM-16βを買いました。一式で60万円ぐらいかかりました。COBOLLコンパイラーだけでも15万円でしたから、COBOLエディターは自作しました。OSは主にCP/M-86を使っていました。MS-DOSも持っていたのですが、CP/M-86の方がずっと速かったのです。コピーコマンドがPIPなどと、ちょっと直感的にはわかりにくいところもありましたが、コンパクトでまとまっていました。
このころ、仕事でNECのP-TOSというOSを使っていました。マシンはN5200というNECのビジネス・パソコンというもので、8インチのFDDが2台ついてました。主にCOBOLで書いてました。このCOBOLは画面の表示をDATA DIVISIONのSCREEN SECTIONで定義するというもので、罫線を引けるという特徴がありました。標準からはずれても、罫線枠を画面に表示して帳面感覚で操作できるようにという配慮から来てるのでしょう。実に日本的な考え方だと思いました。
その後、横浜に転居し、再就職して、IBMの世界に入りました。AS/400 B30という最新鋭のコンピュータをはじめからまかせてもらえることになったのです。このマシンの特徴は、これまでのコンピュータとはかなり違う技術で出来ているということになります。知れば知るほど好きになるマシンです。
このマシンが電源設備までは出来た状態で置いてあったところに入社したのです。まず、何をするかということから取り組みましたが、最初の3年間はシステム開発に没頭しました。端末装置はパソコン5530、PS/55や
専用端末3477を使ってました。
これらのパソコンは、まだDOS/V以前でしたから、日本語DOS(J-DOS)というものでした。パソコンとしての利用はほとんど無く、ごく少数の人がlOTUS1-2-3を使っている程度でした。専用端末はFDからの起動でしたが、パソコン端末はHDDからの起動の為、起動時間が少ないこと、個人別辞書の編集にパソコン端末ならば、FDを入れ替えなくても良いということ、がメリットでした。この時代が長くつづきます。
DOS/Vが開発されたのは、実に衝撃的でした。それまでのパソコンPS/55でも英語モードにしてゲームもできたのですが、SWITCHコマンドで起動し直さないとなりませんでした。一番の驚きはフォントを自由に替えられる、表示桁数行数が替えられるということでした。それまではシステム・フォントは漢字ROMとして24ドット明朝体フォントの固定でしたから、これは実に楽しい事でした。というのは、まだWindows 3.1が無い時代の文字だけの画面だった話です。55ノートと呼ばれたIBM PS55note(5523s)を20万円で買って持ち歩きました。RAM4MB,HDD40MB、モノクロ液晶ディスプレイのノート型です。カバンに入れるとけっこう重いので、デイパックに入れて背中に背負ってハーレー・ダビッドソンFXSTCを駆って通勤していました。
それからすぐにWindows3.1が発売されて、いよいよ僕も自作パソコンの道に入り込みました。